国内外研究成果発表会等派遣事業 研究成果レポート





工藤紗貴子(日本歴史研究専攻)

1.事業実施の目的 【e.国際会議等研究成果発表派遣事業】
  国際シンポジウム「世界における日中文化と文学(世界中的中日文化与文学)」での研究成果発表
2.実施場所
  東北師範大学外国語学院、北京大学
3.実施期日
  平成18年9月1日(金)~平成18年9月4日(月)
4.事業の概要
 

 東北師範大学における国際シンポジウムは中国側、東北師範大学文学院と外国語学院、日本側早稲田大学日本古典籍研究所と日本宗教文化研究所の共催である。発表人数は55名、参加人数は100名近くにのぼった。2日間で7つのセッションに分かれて発表がおこなわれた。

Ⅰ「文学理論と近代文学」
Ⅱ「漢詩文と和歌」
Ⅲ「物語・日記・説話の生成と受容」
Ⅳ「日本近代文学の思想と特質」
Ⅴ「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教①」
Ⅵ「中国語と日本語の交流」
Ⅶ「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教②」

  初日、開会式ののち、日中双方の代表による基調講演がおこなわれた。
  東北師範大学、孟慶枢教授による基調講演は「文化的トポスにおける日本文学史の再構築」と題しておこなわれた。これは、近代的学問方法の成立を文献学の発生に求めたものであった。近代、明治の文学は、国学の復興、また「国語」教育など、きわめてポリティカルな方向へと傾斜した。本講演ではこの視点を踏まえつつ、しかし、いかに近代における文学研究自体をいかに評価しなおしていくかを論じた。中国の東北部では、日本文学は中世期よりも近代期のものの研究の方がさかんであると聞いた。ともすれば帝国主義、国粋主義へと国民を駆り立てるひとつの要因となった文学を、否定的な見方のみならず、肯定的にとらえ直してこそ、正しい近代日本文学、ひいては「日本文化」の理解につながる、という姿勢が感じられた。
  日本側の基調講演は早稲田大学の吉原浩人教授による「自賛の文学―大江匡房の自作四十九日願文を中心に―」であった。平安時代の文化人、大江匡房の残したテキスト群を対象としたもので、古典文学における共通言語であるところの「漢文」による作品の読解を示したものであった。
 
  北京大学における学術交流会は、昨年この国際シンポジウムが北京師範大学でおこなわれたためもあってか、一年ぶりの再会といった参加者が多かった。しかし、昨年参加していない者にとっても、はば広く新しい情報を取り入れたり、広い研究分野での人的交流をおこなうことができた。

5.学会発表について
 自身の発表は、2日目の午後に割り振られた。セッションⅦ「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教②」の会場でおこなわれ、他には「浄土宗における漢籍受容」等の発表がおこなわれた。
  自身の発表は、「歴史民俗学的視点から「山の霊場」を見る」と題し、現在メインで調査、分析をおこなっているフィールドの、近世文字史料の解読からわかったことを中心に発表した。

 ここでの対象である「山寺夜行念仏」の最盛期は昭和30年代であった。昭和41年の同行記録では、オツヤモウシといわれる山内の四か院の檀家が集まり、登ってくる行者を待っていたと記されているが、昭和60年以降はひとりのオツヤモウシも確認されていない。ほぼ同時期に念仏講中の数も減り、現在ではふたつのグループを残すのみである。
  夜行念仏の行程を終えた行者たちは、オツヤモウシの人々、磐司祭を見に来た人々と一緒に獅子踊りを楽しんだという。昭和40年代に撮影された映像では、根本中堂前の広場にぎっしりとつめかけた、多くの見物客の姿を見ることができるが、昭和60年ごろから祭りは中断、平成14年から再興した。

   現在行事がおこなわれるルートは、最年長の行者たちの若いころ、つまり本行事の最盛期と比べても、大幅に縮小されている。その当時よりもさらにけわしいルートを、かれらの先輩に当たる人々は踏破したという。戦中から戦後すぐにかけての時期である。では、さらにそれ以前はどうだったのだろうか。

  立石寺は中世以降、度重なる戦災に巻き込まれ、その文献資料が殆ど残っていない。特に、前述のように寺の行事ではなかった夜行念仏に関する、立石寺関連の文書は皆無で、磐司祭についての記述がわずかに確認できるのみである。だが、山形市に隣接する寒河江市の平塩地区に、平塩熊野神社があり、この神社の衆徒であった妻帯の坊、栄蔵坊が、夜行念仏に関する文書を所蔵していた。平塩熊野神社は前九年、後三年の役のころに勧請されたと推定されている。栄蔵坊の設立年代は今のところわかっていないが、明治に入り、他の坊とともに禰宜になることを願い出、許可された。その後、これも年代は確定できていないが、おそらく明治10年前後に坊を廃したと考えられる。

  栄蔵坊が所蔵していた文書は、現在は山形市郷土館に保管されており、平塩栄蔵坊文書といわれている。発表者は一昨年、この文書の悉皆調査をおこなった。現在目録を作成中であるが、これまで144点の史料が確認できた。もっとも古いものは天正11年、最も新しいものには明治11年の日づけがある。そのほとんどが手紙で、近隣の住民と、栄蔵坊の密な交流を見ることができる。

   この文書の中の一18点が、夜行念仏に関連するものである。中でも『念仏歌讃』と題される六点の冊子に注目した。これらは行者の服装の意味や回向文、各種の許可証の書式をまとめた、いわばマニュアルのようなものである。いずれも書かれた日づけは明記されていないが、江戸時代後期から幕末にかけて何度も複写されたものだと推定される。本発表は、この冊子の解読によって判明したことを中心におこなった。

  これらに記されている回向文を詳しく見た結果、次のようなことがわかった。まず『念仏歌讃』の回向文は、山寺夜行念仏保存会の回向文とほぼ同様であること、また回向文の順番が、山寺山内の堂宇等の配置と、ほぼ一致することである。これらのことから、『念仏歌讃』の回向文があげられた場所、掛け所の同定を試みた。

  山寺山内や参道の様子は、明治以降大きく変化した。現在では失われた堂宇、石塔、自然物も少なくない。そこで、明治34年、41年に書かれた紀行文や、幕末に描かれた参詣絵地図を参照しながら、現在の地図に『念仏歌讃』の掛け所をポイントした。それによると、『念仏歌讃』の時期には、現在よりもずっと広い範囲をまわっていたということが明らかになった。つまり、夜行念仏の行程は、『念仏歌讃』に書かれた時期から現在に至るまで、縮小を続けているということがいえる。
 
 ルートが短縮されるということは、念仏をあげる場所の数が減っているということである。このことを行事の簡略化であるといってしまうことは簡単だが、それは簡略化させてでも、この行事を存続させようという意思の表れと考えることもできるのではないだろうか。さらに、この行事の、もっとも核になる部分が残されていっているのだ、ということもできると考えられる、といった主旨の発表をおこなった。

 文学研究者が多かったため、テキストの読解に関する質問など、普段の自身の研究環境からはなかなか深化できない部分に関しての言及が多く、大きな成果を得ることができた。特に、発表用の参考資料として提示した、自身では重要視していなかった文書の、歴史的、文化交流的な面における重要性を指摘されたことは、博士論文の構成に厚みを加える研究の可能性を示唆した。

6.本事業によって得られた成果
 

 今回は、国際シンポジウム「世界における日中文化と文学(世界中的中日文化与文学)」に参加し、ここで発表をおこなった。当該シンポジウムは早稲田大学日本古典籍研究所、早稲田大学日本宗教文化研究所が、中国国内の大学と共催するもので、今年で2回目となる。シンポジウムのテーマに、大きく文学が掲げられているが、内容は多岐に渡り、日本民俗学を専門とするわたしも、問題なく発表の機会を与えられた。
  初日の午前中は基調講演を聴講し、午後と2日目全日が研究発表にあてられた。参加したセッションは、1日目午後は「物語・日記・説話の生成と受容」。ここでは都という場所において著述されたものがどのように地方へ伝播し、人口に膾炙し、定着していくのか、という過程についての議論が中心におこなわれた。この考え方は、民俗文化の波及、定着の論理とほぼ同様であり、多岐に渡る研究対象の、詳細で深い研究を聴講できたことは大きな収穫であった。また、説話文学に関しては、博士論文では触れることはないが、学部、修士課程を通して研究対象にしてきたことでもあり、その点でも少なからぬ刺激を受けることができた。
  2日目は全日「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教」の会場で発表を聴講し、ディスカッションに参加した。『日本霊異記』を初めとする仏教説話、また僧侶の日記などに関する研究発表が多く、人々の信仰世界についての研究をおこなっているわたしにとっては、たいへん参考になるものが多かった。
  このシンポジウムに参加したことは、自分の研究テーマからは少しずれた専門の人たちに、いかに自分の研究を説明するか、という練習にまずなった。さらに、多少ずれているとはいえ、近接、隣接領域の研究者の前での発表が研究の深化につながるという、学際的な経験をすることができた。また、普段の環境ではあまり出会うことのない、若手の研究者や学生との交流を深められたことも、大きな収穫であった。繰り返しになるが、自身の発表において発表用の参考資料として提示した、自身では重要視していなかった文書の、歴史的、文化交流的な面における重要性を指摘されたことは、博士論文の構成に厚みを加える研究の可能性を示唆し、大きな収穫となった。

7.本事業について
   当該シンポジウムに参加できたのは、ひとえにイニシアティブ事業の海外学生派遣事業があったためである。わたしの専門領域である日本民俗学という学問分野は、国際的な舞台での発表機会が著しく少ない。今回のような海外での発表の機会は積極的に生かしていきたいところであるが、海外での学会発表に気軽に参加表明できるだけの経済的な基盤はなかなかないのが現状である。その中で、本事業に採択されたことによって、この数少ない機会をみずからの糧にすることができた。この点に関してはたいへん感謝している。
  これは、文化科学研究科の多くの学生に共通することなのではないだろうか。自分の研究成果を発表する機会は積極的に得ていきたいが、特にその会場が海外であった場合、発表に関わる自己負担額は大きい。学会での発表が、大きく研究業績に関わってくる以上、発表の機会を生かすことができる本事業は、学生にとっての福音であるといえよう。
  特に今回、海外での発表の経験を積んだことで、今後の研究発表のあり方、またみずからの研究の視点に大きな影響を受けることができた。また、シンポジウムの運営を間近で見ることができ、人員の配置やアナウンスなどのスキルを、概略だがつかむことができた。基盤機関で国際シンポジウムを初めとする研究発表の場のアシスタントをする機会も少なくない。これらの経験を大きく生かし、イニシアティブ事業の成果のひとつとしたい。

 
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