国内外フィールドワーク等派遣事業 研究成果レポート





伊藤 悟(地域文化学専攻)

     
1.事業実施の目的 【h.海外フィールドワーク派遣事業】
   ①チェンマイ大学の国際音楽会”Roots of Asian Sound”に参加
②雲南芸術学院での特別講義を行う
③中国のタイ族村落における長期調査のための事前調査
④北部タイのタイ族村落の近況を調査
2.実施場所
  ①、④…タイ王国   ②、③…中華人民共和国雲南省
3.実施期日
  平成18年2月14日(火) ~ 平成18年3月31日(金)
4.事業の概要
   申請者は1998年よりこれまで中国、タイ、ラオス、ビルマと広範囲に居住する少数民族タイ族の音楽、特に中国において近年復興が著しい楽器「ビー・ラムダオ」について調査研究してきた。今後は中国雲南省徳宏州のタイ族村落で博士論文作成のための長期調査を予定している。本研究者の現在の研究テーマは、中国雲南省徳宏州のタイ族の生活における音文化の変容について、日常的実践における「感覚すること」という視点から考察し、身分や性別などの差異を持つ人々が、いかに共同体として伝統文化の継承と生活の改善という現代社会の矛盾を生きているのか明らかにすることである。
本事業におけるフィールドワーク計画は、中国雲南省徳宏州のタイ族村落における調査研究が中心であった。また、それ以外に中国とタイの大学で国際交流活動を行い、さらに異なる地域のタイ族文化を比較するため、タイ北部メーホンソン県のタイ族村落で補足調査研究を行った。以下、本事業の概要を述べる。
 
① チェンマイ大学の国際音楽祭”The Roots of Asian Sound”で演奏者として参加
  申請者は野外調査、研究活動以外に、これまで調査地で学習、習得した音楽を演奏する活動を通じて、国際交流や異文化理解を促進してきた。今回の演奏会はチェンマイ大学芸術科より招待を受けた。かつて北部タイのタイ族村落にも「ビー・ラムダオ」は伝承されていたが、近年では一部の老人を除いて伝承が途切れている。しかし、近年古い音楽を復元する試みがあり、その活動の一端として申請者も演奏を披露した。当初の計画ではシンガポール国家級楽団「アンカラ」を招いた演奏会になるはずだったが、シンガポール政府はタイ王国タクシン首相の汚職疑惑によるタイ国民のデモ等の政治活動を危惧し、アンカラの派遣は直前になって取りやめられた。
  演奏会の参加者は、今回の演奏会を企画したチェンマイの現代民族音楽グループChangsaton、チェンマイ大学芸術科の教員であり歌手であるMr. Manop Manasam、現代バレエの花岡アサエ、そして申請者である。演奏会はチェンマイ大学美術館ホールとゴンディースタジオにおいて2日間、1公演2時間行われ、集客数はホールでは200人以上、スタジオでは100人以上にのぼる。主に演奏された音楽は、すべて北部タイを中心とした伝統楽器を用いて仏教思想をヒントにフレーズを10曲ほど作曲し、当日は即興演奏をまじえて各曲のフレーズを演奏するものであった。

② 雲南芸術学院で特別講義を行う
  国際交流の一環として、本研究者が訪中する際に調査や演奏体験、研究内容について学生に特別講義を行う予定であったが、修士課程の学生数名がフィールドワークを延長したため特別講義という形ではなく、一般授業において学生を交えてフィールドワークの手法や近年の少数民族伝統音楽の変化について意見を交換した。

③ 中国のタイ族村落における長期調査のための事前調査 
申請者の研究では、聴覚や嗅覚、触覚、味覚といった「感覚すること」、感覚的認識は文化的差異があり、文化や社会の状況によって構築されるという前提に立ち、異文化における感覚的認識の差異を綿密に調査することによって、ステレオタイプ化された視点に疑問を投げかけることが一つの目的である。
タイ族村落では、楽器「ビー・ラムダオ」の復興と中国全土における流行によって、民間経営の楽器工房が設立され、生産された楽器は全国に流通している。また、豊富な伝統文化資源と、自然環境が政府の注目を集め、近年地域開発や文化復興が率先して行われていた。今回の調査では、長期調査に先駆けて基礎調査をおこなった。音やほかの感覚刺激に関する解釈の言説を収集し、村落空間における実際に聴こえる音の配置、サウンドスケープの作成を試みた。また、結婚式や女性の地位向上をかかげた活動などに参加した。異なる地域を訪れることで音文化の差異について簡単な調査も行った。

④ 北部タイのタイ族村落の近況を調査 
  これまでの「ビー・ラムダオ」に関する調査では以下のことも明らかになってきた。中国側で復興したタイ族の楽器や音楽が、テレビや複製メディア等によってビルマやタイ族にも流通し、一部の知識人は文化復興によって支配に対する抵抗として実践する動きもある。少数民族のローカル地域の、かつトランスナショナルな流通によって、国境を越えた民族の相互作用が新たな社会現象を生み出しつつある。
  調査地は、ビルマ国境に接したタイ北部メーホンソン県のタイ族(タイ・ヤイ)の村落であった。調査では聞き込みや市場で売られるタイ族音楽や舞踊などの芸術に関する海賊版VCDについても簡単な調査を行った。また、出家儀礼を見る機会に恵まれた。


5.本事業の実施によって得られた成果

 

 本事業のフィールドワークでは、中国のタイ族村落における長期調査のための基礎データを収集し、国と地域を越えたタイ族の音文化や習慣について簡単な比較を行うことができた。比較を通じて、様々な伝統音楽や日常生活の音、自然の音が失われ、その一方ではCDやVCDのメディアの影響が強くなっていることがわかった。地域によっては残されている音や新しい音の存在が異なる。それらは地域ごとの生活環境、民族、経済、政治等の問題とも関係しているのであろう。
  調査地である中国雲南省徳宏州には55少数民族のひとつタイ族が居住する。タイ族はその言語や生活様式等によって様々な下位集団に分類されているが、主に徳宏州には、「タイ・ヌー」、「タイ・マオ」の二つの下位集団があるとされている。また、今回調査をおこなった北部タイのタイ族村落のタイ族は大きなタイを意味する「タイ・ヤイ」(主にタイ王国のタイ国民をタイ・ノイ、小さなタイと呼び、区別している)の自称を持つが、伝承や歴史によれば数百年前から現在に至るまで徳宏州より移住してきた人々である。現在、中国とビルマの辺境貿易やビルマの内戦よって、中国、ビルマ、タイのタイ族の人々は越境を続け往来が盛んである。また、メディアの発達によりタイ族語のポップスや伝統芸能といった様々な海賊版のVCDやCDが流通し、今回の調査ではその勢いはますます顕著であることがわかった。
 本事業では中国のタイ・ヌーとタイ・マオ、そして北部タイのタイ・ヤイの環境と音について比較を行う機会に恵まれた。ただし、それぞれの地域は経済発展の差異や地理条件も異なるため今回の比較は一般化することはできないが、今後の研究にとって基礎データとなるだろう。以下に簡単だが音文化や生活環境等の比較を述べる。
  徳宏州のタイ・ヌーの人々は主に漢族文化の影響を受け、居住建物は四合院風の土間式のものである。村落内の道は非常に狭く、高い住居が視界をさえぎるが、生活の様々な音は壁に反射して響き、よく聞こえる。仏教を信仰するも村落にある寺には僧侶はいない。出家するものもいないため、近年若者の間では精霊信仰の影響が強く見受けられる。中国政府公認のタイ・ヌー文字を使用するが、タイ・マオやタイ・ヤイの文字と類似している。今も歌垣の習慣が根付いている。
  タイ・マオの人々は中国領土内でもビルマ時間で生活し、日常の経済活動ではビルマ貨幣が用いられることも多い。かつての秤の基準などもビルマの影響を受けている。建物は高床式であるが、かつては家畜の飼育に用いられた1階は現在居間として使用されている。各家の敷地には特に垣根は設けられておらず、道も広く、村は開放的な景観である。仏教信仰が根付いているため各家庭には仏壇が設けられ、また村の寺には僧侶がいる。内戦を逃れた僧侶も多く、ビルマの遠方より中国に移り住む僧侶もいる。そのため寺では一日の決まった時間に大戦中の爆弾を再利用した鐘を打ち鳴らし、時報としている。かつては太鼓を用いていたが、金属の鐘は年々拡大する村の隅々まで響く。タイ・ヌーと比べて、シャーマンの存在は公に認められている場合が多く、治療者としての役割が強い。タイ・ヌーの地域ではシャーマンの存在はあまり公にしないが、攻撃的な隠れシャーマンが多いという。
  タイ・ヤイの人々はビルマの影響を強く受けている。近年、ビルマにおける内戦によってビルマ側のタイ・ヤイの人々が難民としてタイに密入国するケースが増えている。高床式住居に住み、ほかの地域と比べて熱帯気候で自然環境が守られているため様々な種類の鳥や虫の鳴き声が聞こえる。仏教信仰が根付いているため、各家庭の全ての男子は6-10歳位になると毎年4月の出家儀礼に参加し、短期間仏門に入る。様々な儀礼や活動では太鼓の音がシンボルとなる。胴の長い太鼓を用い、低い音に倍音が響くため、時間的に長く鳴る。男子はそれぞれの技法を編み出し競い合い、太鼓による言語メッセージ(信号)も多く存在する。
3者を比較してみると、中国側のタイ族にはタイ・ヤイのように全ての男子が出家する習慣はなく、また、太鼓についても、中国側の太鼓の胴は短く、倍音の響き方が異なり、音の発音は短い。楽器と言語メッセージに関して言えば、タイ・ヌーの人々の間では、かつて管楽器ビーラムダオ(ひょうたん笛)の音を用いて言語メッセージを伝えたといわれている。
  人々の話し声の大きさも異なる。タイ・マオの人々の話し声は最も小さい。かつて藁葺き屋根で竹を用いた高床式住居の影響で容易に話し声が外に漏れるため、人々の話し声は小さい。それに反して、タイ・ヌーの人々は声が大きい。村の各家が背の高い土塀に囲まれていることが影響しているのかもしれない。ただし、共通して伝承されている夜間恋愛に用いた管楽器や弦楽器(胡弓や三弦琴)の音は細く小さい。また、タイ・ヌーの家は土塀で囲まれているものの、居間と中庭の間には壁はなく外(空)に開かれていて、寝室の外に面した壁には穴があり、外の音が聞こえるようになっている。また、貧しい家庭では土塀はなく、壁も竹で編んだものを用いている。土レンガがどの家庭でも用いられるようになったのは近年の経済発展と政府の衛生指導による。
  そのほか、歌垣に関しても3者の間には類似する特徴も見られるが、言語の語彙やイントネーション、発音等の差異によってメロディーラインの構成が異なるようである。また、タイ・ヌーの歌垣では声を腹式呼吸によって腹から出すが、タイ・マオやタイ・ヤイの歌い方はそれにくらべて控えめである。
このようなタイ族地域間の類似と差異をふまえつつ、今後の長期調査はタイ・ヌーの特定の盆地地域(村)において実施する。本事業で収集されたデータは、博士論文の執筆に用いられるのみならず、自らが習得した演奏技術等をもちいた演奏活動といった国際交流活動にも反映される。それは、フィールドと我々の社会をつなげる実践であり、そうした経験と知識によって異文化理解のために積極的に社会還元していくものである。

6.本事業について
   文科系大学院の存在意義が問われる現在において、学費に加えてフィールドワークやそれに必要な機材等の購入など経済的に負担の大きい学生にとって、本事業の研究助成は負担を軽減し、かつ研究を促進するものである。ただし、経費があらかじめ支払われることが望ましい。
 
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