国内外フィールドワーク等派遣事業 研究成果レポート





七田麻美子(日本文学研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【g.海外教育研究機関活用事業】
  海外所蔵の和刻本漢籍の調査および白居易関連書籍調査
2.実施場所
  バージニア大学図書館、ハーバード大学燕京図書館
3.実施期日
  平成18年2月12日(日) ~ 平成18年2月20日(月)
4.事業の概要
   今回の調査の目的は、海外の図書館所蔵の和刻本漢籍の調査、および白居易関連の書物の調査が目的である。
今回の調査では、アメリカにある二箇所の大学図書館を訪問した。
一つ目の調査先はバージニア大学図書館である。バージニア大学はアメリカ南部の名門大学で、トマス・ジェファーソンの手による創立ということで名高い。そして、そのため、大学図書館の所蔵コレクションの白眉は、やはりアメリカ独立宣言関連のものであった。コレクションの中、圧巻は、高名なアメリカ公文書館に収められるている、各州代表の署名が書かれた、いわば国宝たる独立宣言書よりも前に、各地で「国民」に対して配布掲示された、「本物の」独立宣言書の存在であった。これは現在25枚の存在が確認されるのみで、その中の一枚がこの大学に保存展示されているということである。
こうしたコレクションに触れると、アメリカ建国という時に言葉が果たした意味を考えることになる。いや、むしろ、独立宣言というものを神話化してきた、アメリカという若い国における言葉の意味を考えることになるのである。しかし、この思いを抱くにいたったのは、この図書館における日本文学の取り扱いを見てからのことかもしれない。
バージニア大学には日本文学、および中国文学の学部等はない。そのため本来図書館も日本文学・中国文学に関する書籍はそれほど必要ないのであるが、この大学図書館では、世界的に見ても大変意味のある事業をしており、そこで日本文学が大きく取り上げられている。その事業とはバージニア大学図書館のText Encoding Initiative standards (TEI)というもので、その中に日本語テキストイニシアティブというプロジェクトがある。これは英語を母国語とする研究者・学生を利用者の主な対象として、その研究に資するために、日本の古典文学をウエブ上で公開するものである。日本語テキストに英訳を添え、タグ付けしたもので、日本語・英語の両方で検索を可能にしている。日本の研究者の中でもこのHPの存在は徐々に知られてきているが、浸透しているとは言いがたい。海外における日本文学の研究動向に対する目配りは、あまり成されていないのが現状であるが、このE‐TEXTは日本でももっと注目されていいと思われる。ここでは著者からの許可を得たもの以外は、著作権等の切れた作品をのみ取り扱っている。そうした制約の中から、学術情報としていかに付加価値を付けていくかを工夫し、多くの研究者の研究に役立つコンテンツを、ほぼ手作りで行っている。その真摯な姿勢は、文学という言葉の精華を尊重してきた、この大学ならではの発想に基づくものだろう。
残念ながら、古書籍としては日本にある以上の珍品のようなものは見つからなかったが、今後の指針として、日本語テキストイニシアティブの充実を図る上で、どういう形であれ、そうしたものの取り扱いも検討していくであろうことが伺われた。今後の成果にも大いに期待を寄せるところである。

二箇所目の調査先はハーバード大学燕京図書館である。
この燕京図書館は北京大学の前身燕京大学の蔵書を中心に成ったものである。当時燕京大学にあった和書、和刻本等と共に、1978年からはライシャワー研究所の助成などを受け収集された書物により、在外和書の所蔵では世界最大級の図書館である。ここの和古書の調査に関しては、既に岡雅彦先生、青木利行先生のものがあり、その結果が『ハーバード燕京図書館和書目録』(1994年 ゆまに書房)として報告されている。ただし、その後も収集が続けられてていること、また、大規模調査であった岡先生の調査後でも、未だ整理のついていない和古書は多いことから、現在も例年調査団が入っている状況で、まだその全容の解明には至っていない。
日本の和古書ですらそういう状態であるから、当然それを上回る所蔵を誇る古漢籍については、相当な調査研究が積み重ねられているのであるが、それでもまだまだその全体像は見えてきていないといってよい。
これらの蔵書の整理のためには、中国、日本の研究者による調査も大きな要素なのであるが、それと同時に重要な役割を果たしていたのが司書の方々の調査研究であった。日本で考えられている以上に、欧米では司書の役割は大きいと聞いてはいた。実際にその研究現場に触れてみると、その理由もむべなるものであると思われた。今回、図書館の書庫の中の研究室で古漢籍の調査をする、中国人の司書の方の仕事を垣間見る機会があった。古漢籍の善本の目録作りをなさっているところで、大量の古漢籍を前にデータを取り、それを精査しているということであった。その研究成果が待たれるところである。こうした司書=研究者の方に支えられている図書館であるから、その充実振りには驚くばかりであった。ハーバード大学には、日本文学の専攻はないのであるが、少なくとも日本にある一般的な図書館より、日本研究にとって良い環境であることは否めない。燕京図書館はハーバード大学の中の研究施設としては、規模は小さいほうである。それでも、このレベルの蔵書を持つ図書館は日本国内のものと比較しても稀有な存在である。ハーバード大学全体の規模を感じて、戸惑うほどであった。
こうした中、書庫の一角の古書閲覧室を占拠させてもらえたのは、本当にありがたいことであった。燕京図書館では、学外からの利用者には利用期間を区切った利用者証のカードを発行し、それを見せれば学生と同じサービスが受けられることになっている。機材や書物を自由に使用してよく、司書の方は研究のための相談にも応じてくれる。こうしたサービスを駆使して、大変に居心地のよい空間で、調査に励むことが出来た。調査中わからないことがあれば、手が届くところに開架の書庫があり、十分な資料がそろっている中で確認することが出来る、という状況であったので、調査というより、勉強に行ったという方が正確かもしれない。連日、9時から5時まで古漢籍に対峙して、まだ飽き足らぬという感想をもったのも、この環境の力が大きいだろう。ハーバード大学という強大な学問空間の中で、燕京図書館もまた、学問をするものには非常に優しい場を提供してくれていた。
ここで、今回は明暦本『白氏文集』を中心に調査を行った。破損がひどいということから、実物は見られなかったが、マイクロフォームで宋刊本の『白孔六帖』「白氏六帖」なども見ることができた。その他では、『長恨歌講義』『長恨歌伝』の調査を行った。明暦本には期待していた書入れ等なく、書誌データの収集と、その他の本の書き入れ等の調査が主となっていった。今回の取り扱った本は来歴のわからないものが多く、調査データを持ち帰り精査を必要とするものが多かった。今回扱えたのは、燕京図書館の白居易関連古漢籍の中でも、一部のものに過ぎないことを考えると、全体的な調査を期待するところである。機会があるならば、自身の手でもさらに調査をしたい思いである。

5.本事業の実施によって得られた成果
バージニア大学では、古漢籍の調査としては特筆に価するものがなかったので、ここでは燕京図書館の報告にのみとどめさせていただくこととする。
上記にあるように今回は明暦本『白氏文集』についての調査が目的であったが、その内容自体は期待していたものではなかった。但し、この本の来歴に関するところについて、解明すべき点確認したので、今後の課題としたい。燕京図書館の古漢籍については、全体にこの来歴についての部分は調査が徹底していないことがあるらしく、ひとつひとつの書物の調査の積み重ねによって、今後明らかになっていくであろう。
意外な成果としては『長恨歌』に関する書物に面白いものがあったことであった。
『長恨歌』は白居易の作品の中でも、特に大きな影響を日本文学に与えたものだとされている。これは『源氏物語』の冒頭と『長恨歌』の関連からくるものかとも考える。現在刊行されている『源氏物語』の注釈書等にもそうした指摘がなされており、日本文学に『長恨歌』が与えた影響として高校生でも認識している事項である。しかし、白居易作品の日本文学への影響を考えるに、特に平安時代の文学においては、『長恨歌』の存在は特筆すべきものではないと思えてならない。一要素に過ぎず、白居易の直接の影響下にあった漢詩文においては、むしろその存在感は希薄である。もちろんこれは、平安時代の文学状況に限ってのことである。これが、後世において変化していたのだと思える資料が今回あった。『長恨歌伝』の江戸期の刊本を複数冊確認でき、その書き込みや本文の状況を詳細に見ることが出来た。『長恨歌伝』自体は、日本国内で存在するもので有るが、その数は決して多くはない。もちろん幾つか有る『長恨歌』の注釈書のひとつであるから、その内容を調査することで他の注釈との関連は明らかになるだろう(ただし現状では成されていない)。今回はその来歴は不明で有るが、相当に読み込まれた跡のある本を手に取ることができ、この本が刊行された当時の享受のあり方を知ることが出来た。即ち、江戸期においての学問の対象としての『長恨歌』の存在である。
『源氏物語』における『長恨歌』の影響をいうときに、一般に言われるのは白居易の風諭を理解しない、もしくは受け入れない姿勢というものだが、これがいつごろから云われているのか意識しなかった。今回、『長恨歌伝』の諸本にあたり、江戸時代の有る側面において、『長恨歌』をロマンティシズムの対象としていない状況が確認できた。その学問分野を特定するのは更なる調査が必要となり、なお時間がかかるが、一定の範囲において、『長恨歌』の享受を整理していた状況や、読み込みの試行なども見て取れた。これらは今後の課題にも繋がるが、日本文学と白居易の関係を研究課題とする私にとっては、大きな成果となった。

6.本事業について
   
 
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