国内外研究成果発表会等派遣事業 研究成果レポート





杉森真代(日本歴史研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【d.国内学会等研究成果発表派遣事業】
  平成18年度奄美沖縄民間文芸学会宇検村大会での研究発表
2.実施場所
  鹿児島県大島郡宇検村湯湾
3.実施期日
  平成18年9月23日(土) から 平成18年9月27(水)
4.事業の概要
   奄美沖縄民間文芸学会は、琉球諸島の民間説話や歌謡、祭祀儀礼の調査研究およびその成果発表を目的に、琉球諸島の研究者と「ヤマト(本土)」の研究者が共同で創始し、30年以上活動している学会である。毎年、琉球諸島の各地で学会と現地見学会を開いており、今年は奄美大島の宇検村湯湾で学会大会が開催された。大会日程は23日からであったが、報告者は22日に大学院での発表(基礎演習Ⅱ)があったため、23日に移動し、2日目の24日から参加した。
 2日目午前中は、沖縄本島の大学院生の伊藤氏(「鷲の鳥節考」)、わたくし、宇検村教育委員会の直氏(「湯湾の豊年祭とカミ道の伝承」)、奄美郷土研究会員の西田氏(「ノロ祭祀の今」)が研究発表を行なった。
 伊藤氏は八重山の歌謡のジャンル展開について、労働歌「ユンタ」のひとつ「鷲ユンタ」から座敷歌「節歌」のひとつ「鷲ぬ鳥節」への改作を具体的題材として、改作される際の歌詞の変化について考察する発表を行なった。労働歌としての「鷲ユンタ」は農民の集団によって歌われ、歌い手と聴き手が分離していないことが特徴である一方、座敷歌としての節歌「鷲ぬ鳥節」は士族が三線の伴奏をつけて歌い、歌い手と聴き手が分離している。このような両者の歌われる場や状況が、ジャンル展開による歌詞の違いを引き起こしたという。具体的には、聴かせる歌としての節歌は、ユンタのクライマックス部分のみを切り取って重点的に歌う、節歌の歌い手が役人としての教養を歌の中に出すために、元の歌詞の単語を呉音の単語に置き換える、といった要因にもとづく変化があるという。伊藤氏の詳細な検討は発表時における限られた資料に基づく以上は説得力があるが、会場の福田晃先生が指摘されたとおり、労働歌ユンタに見られる様々なバリエーションを考慮すると、再検討が必要な箇所も出てくるかもしれない。しかし、それらを調査したうえで再び労働歌から座敷歌へのジャンル展開を考察し、変化のあり方の大きな傾向が捉えられるとすれば、本研究はさらに有意義なものとなろう。
 直氏は宇検村教育委員会文化財担当者として、宇検村湯湾における詳細な調査に基づき、湯湾の豊年祭が簡略化されつつある経緯と、消滅した祭祀世界を伝えるものとしてのカミ道のあり様について報告した。湯湾集落は、宇検村の役場所在地になることに伴い、大正4年に埋め立て事業を行なう等大規模な町作りを進め、外からの「入り込み者」が増加した。それとともに、女性神役者「ノロ」を中心とする祭祀儀礼が奄美の他地域と比べて早いうちに(福田晃先生によると、「(湯湾では)大正生まれの人が物心ついた頃にはノロはいなかった」)なくなり、豊年祭の行事内容も変化した。具体的には、豊年祭が「八月」と呼ばれていた戦後間もなくの頃までは、相撲と余興(「ナグサミ」)が同様の重さをもって行なわれていたが、呼び方が「八月」から「豊年祭」に変わった頃から、相撲が強調され余興は後退していった。また人々の意識にも変化が起こり、豊年祭において集落の豊かさに感謝することよりは、行事を支え運営し、集落内の人の結びつきを確認することが重要視されるようになった。豊年祭にとどまらず、湯湾において変化・消滅した祭祀はいくつもあるのだが、かつて行なわれていた祭祀を現在に暗示するものとして、カミ道伝承がある。カミ道とは集落の人々に神聖視されている道であり、汚したりふさいだりしてはいけないとされている。集落のほとんどの人が、カミ道について、白い馬に乗ったカミが通る道、と認識している。カミ道はいくつかの拝所や儀礼場を結んでおり、これらの空間でかつて行なわれていたノロ祭祀を想起させるものであるという。現在の豊年祭では、ノロは登場しなくなっているが、ノロ祭祀に代わって若者がカミ道を歩いて移動する「振り出し」という過程がある。
 奄美の祭祀儀礼文化の詳細な報告に初めて接する者にとっては、直氏の報告は難解な部分もあった。しかしノロ祭祀が早い時期に消滅した集落において丹念な調査を行ない、カミ道がかつてのノロ祭祀を暗示する存在となっていることを述べられた点は、示唆に富むと考えられる。道に深い意味づけをすることは、私の調査地である八重山ではそれほど見られないため、琉球諸島における儀礼の多様性の観点からも興味深く伺った。
 西田氏は、現在もノロ祭祀が継承されている名瀬市有屋集落での調査に基づき、有屋のノロ祭祀の現状や神役の継承過程について、写真と聞き書き資料を提示し報告した。神役の高齢化等により、ノロ祭祀は簡素化しているが、簡素化してでも祭祀を継承する背景には、神役のカミへの恐れや畏敬の念があるという。神役の話すカミへの恐れや、神役継承の経緯、および現在の祭祀の様子等についての報告のなかで、八重山では見られない次のような点が興味深かった。第1に、祭祀過程のひとつに、神酒を稲穂やハイビスカスの枝でかきまぜながら唱え言をする場面があること。八重山では、神役は手の平を擦り合わせながら唱え言をする。第2に、かつて子どもにめぐまれたいからと、神役の地位をお金で買った人がいたということ。八重山では、神役の地位は血筋かおみくじによって決められ、神役の地位に就くという希望を明示的にもつことも、その希望をお金によって実現するということも考えにくい。第3に、現在の神役の1人は、祭祀に臨む衣装は中に着るものも外に着るものも、履物もすべて真っ白のものを身に着け、これは本人のこだわりによるものであること。八重山では、着物の上に羽織る「神衣装」とよばれる羽織は白いことが多いが、衣装の選択は個人のこだわりによるというよりは、集落において、あるいは神役の仲間同士で照らし合わせて、神役としてふさわしいとされるものをそろえる。
神役はカミクチを唱える時、カミクチを記したノートを見ながら唱えるということであるが、資料としてカミクチのテキストも提示されていた。
続いて、午後はシンポジウム『宇検村の民謡伝承』において、3本の基調報告とその後の討議が行なわれた。
 まず、酒井正子先生の報告「シマウタの近代―≪かんつめ節≫の変容を例に―」では、宇検村で生まれた民謡「かんつめ節」を例に、1970年代以降の舞台芸能化による曲調の変化が検証された。かんつめ節は、宇検村名柄で1830年頃に起こった1人の娘の死をめぐる事件が題材となって、明治大正期に周辺集落の歌遊びの場で「うわさ歌」として歌われ始めた歌である。当初から、哀調を帯びた悲しい歌として歌われていたが、音響的側面からみると、曲調が急激に哀調を帯びるのは1980年代に進んだシマウタの舞台芸能化の時期である。シマウタは舞台芸能化するに伴い、歌掛けではなく独演形式で歌われるようになり、民謡大会やコンクールなどのステージで「聴かせる」表現が追及された。具体的には、テンポがゆっくりになり、特に高音部が遅速化し、裏声が強調され、長調が短調になる陰旋化が起こった。
 報告では実際に1960年代に収録されたかんつめ節と90年代に収録されたかんつめ節が流されたが、耳で聞いても、両者の違いは明らかであった。哀切感の強調は、かつての歌われる場であった歌掛けの場に存在していたであろう「悲しい歌」としてのコンテクストから独立して、ステージ上において歌のみで哀切の表現を追及したためと考えられるが、同じように「悲しい歌」と表現される歌の時代による違いの大きさに、歌の置かれる社会的立場を考えることの重要性がうかがわれる。
 次に末岡三穂子先生の報告「シマを越える伝承―関東・芦検民謡保存会の活動―」では、東京における7つの奄美島唄教室の概要と、生徒の参加動機や出身地(奄美出身かそれ以外か)、島唄経験の有無などが提示された。島唄教室に奄美出身者以外の人が増加する時期は、奄美出身の歌手が全国デビューする時期と重なる。また、奄美出身者は教室に参加する動機として、故郷に戻った時に唄遊びをすることを挙げているが、奄美出身者以外でも、2000年以降に習い始めた人の中には、教室での稽古にとどまらず、奄美料理屋主催の唄遊びやインターネットを媒介とする唄遊びなど、「唄遊び」への志向が強まっているという。さらに、東京で島唄を習った人が奄美の民謡大会に参加することも増えており、奄美の島唄を考える上で、東京の民謡教室は見過ごすことのできない大きな存在になっているようである。
 最後の報告者である坪山豊先生は、唄者でもあり、実演を交えた報告「ハンオン(半音=陰旋化、都節音階)による『哀調』表現の創造」をされた。坪山氏は昭和47年に民謡大会で大賞となり、その後、民謡大会に出ようとする人への指導を通して、ステージにおける哀調表現を確立した人物の1人である。1つの曲の中でも歌詞によって短調と長調を使い分け、また、どこかなつかしく古くからあるように感じられる歌が氏の作によることがあるといった、ベテランの歌者である。坪山氏は、現在、島唄がヤマトの民謡と変わらなくなっていることを憂慮し、若い歌者に望むこととして、コンクールも歌遊びも両方行ないながら、変えても良いので古い歌も勉強してほしいと述べられた。
討議では、まず、先田光演先生から、沖永良部島においては沖縄本島の流派が入ってくると、地元の歌も踊りもなくなってしまう、ということが報告された。また、奄美大島などでは、年中行事の1つである八月踊りの場が、歌の伝承の場となっているとのことである。
次に波照間永吉先生から、八重山における民謡伝承の状況が報告された。新聞社主催の八重山古典民謡コンクールにより、民謡(節歌)を歌う人の底辺の拡大はなされている。しかし、民謡を習う人の半数はヤマトの人であるという。石垣島の主な流派として石垣流、安室流、登野城風の3つがあるが、新聞社主催コンクールの流派が石垣流であるため、石垣流への一本化の恐れが出ている。節歌は舞踊の地方ともされるが、その際には全体が短縮され、本来の物語的展開が捨象されて舞踊に貢献するものとなってしまう。なお、節歌以外の民謡としてのアヨー、ユンタ、ジラバは、1970年代にまとめられた日本民謡大観には370ほど所収されたが、現在はさらに減っているとのことである。
 山下欣一先生からは、酒井先生の報告で述べられたシマウタの変化について、変化するということはその元があるということだが、そもそもシマウタとは何か、という質問がされた。これに対し酒井先生からは、シマ(集落)ごとのボーダーを持ち、かつて歌掛けで歌われていた歌をシマウタと設定している、と回答があった。
 狩俣恵一先生からは、シマウタの変容と言う時、儀礼の場における変容と、ステージ化という変容があり、儀礼の場における変容には、信頼の厚い人が間違えると皆がそれにならう、またバリエーションのことなどで争いが起こると公民館で話し合いにより決着をつけるなど、人間関係に即した要因によるものであることが多いと述べられた。
坪山先生からは、方言のできない若者による歌の改変は、おかしなものになっていること、奄美の歌には、即興でできたものよりも、八月踊りからとった曲の方が多いことが述べられた。 最後に、シマウタは「変わるからこそ長続きする」のであり、奄美らしさとはバリエーションを許す点にあること、シマウタの学び方として対面で学ぶ方法は変わらないでほしいこと、シマウタの基本のシマグチ(方言)を教え、学ばなければならないことが述べられ、結びとなった。

5.学会発表について
 

 「儀礼の場における非日常的発話―石垣島川平の年中儀礼調査から―」という題目で、次のような発表を行なった。
 石垣島川平集落では、農作物の生育や豊作、住民の健康を祈願する儀礼が1年に26回行なわれている。発表者は、それらの儀礼における唱え言や歌謡等、ことばを伴う行為に着目して調査を行なう過程で、歌や唱え言ほど文句や形式が決まってはいないが、日常的なくだけた発話とは異なる発話がなされる場面があることに気付いた。その発話は、敬語を多く用いる川平方言であり、現在、儀礼の場でこの発話を行なうには習得期間が必要な人も多い。この発話を、儀礼に特有の「非日常的発話」と呼ぶこととする。
 ただ、川平方言を自由に操ることのできる人が大部分であった過去の時代において、この発話は現在みられるほど「非日常的」であったとは言い難い。けれども、敬語を用いるあらたまった言葉遣いであることには変わりない。現在、「昔ながらの」川平方言を日常的には用いない人が増えているため、この発話の「非日常性」が増していると言えよう。
 本発表では、非日常的発話が儀礼におけるどのような場面で発せられるかを、これまでの調査にもとづき報告し、この発話が儀礼の場を構成する一要素であることを提示した。具体的に挙げた事例は次の4つである。

①女性神役者「ツカサ」による拝所「オン」での祈願に、男性神役者「スーダイ」が伴う儀礼(初穂儀礼である「スクマ願い」や、災厄防除儀礼「十月祭」など)で、ツカサがオンの最奥の「イビ」で祈る前後、ツカサとスーダイは、非日常的発話により挨拶を述べ合う。
②ツカサやスーダイは、他のツカサやスーダイ、およびスーダイの補佐役である「ムラブサ」、さらに儀礼によっては集まるべきとされている一定年齢以上の男性達の前で、祈願が終わった後、非日常的発話により挨拶を述べる(豊年祭の午前中など)。
③川平では1年に1度、儀礼の暦における年の変わり目の夜に、「マユンガナシ」と呼ばれる来訪神が現われ、各戸訪問を行なう。このとき各家でマユンガナシをもてなす役目を負う当主は、非日常的発話を用いてマユンガナシを迎え、饗応し、お礼を述べる。
④1年に26回の儀礼のそれぞれについて、3日前の朝に、スーダイはツカサの家に行き、来たる儀礼での祈願を非日常的発話によって頼む。
 以上の事例を中心に述べ、川平の年中儀礼全体における非日常的発話の頻度や個々の儀礼における位置付け、非日常的発話の担い手や習得方法、伝承の状況について述べた後、下記のようなまとめを行なった。

①非日常的発話は、川平の儀礼における多くの場面で発せられる。
②非日常的発話を発すべき立場についた人(スーダイ、マユンガナシを迎える家の当主)は、この発話のやり方を学ばなければならない。
③儀礼の場において非日常的発話を行なう時に、紙を見たり、間違えたりすると、注意・指導される。
④非日常的発話ができないために、儀礼に参加しない人も出てきている。

 これまで、儀礼の場におけるあらたまった言葉遣いによる会話について着目されたことはなかったのだが、本発表では以上のまとめをふまえて、適切に発せられる非日常的発話が、川平の儀礼を構成する1要素であり、非日常的発話を行なう技術は、儀礼に携わる人に求められる技術の1つであるとも言えることを主張した。
 現在、非日常的発話の技術習得が困難な人が多いという状況を1つの起因として、川平の儀礼に変化が起こっていると言い得る一方で、様々な要因から変化をきたしている儀礼の場において、非日常的発話の存在意義や役割がうかびあがってきたとも言うことができよう。今後は、儀礼の場の変化のあり様を適切に捉え、そこにおいて非日常的発話を位置づけることを目指し、川平の儀礼における様々なことば(ツカサのニガイフツ、マユンガナシのカンフツ、ジラバ等)と合わせて考察していきたい。
 なお、今回は非日常的発話の実例を挙げることがほとんどできなかった。それは、儀礼の場での録音が難しいことに拠るが、今後はできるだけ具体例を聴取・分析していきたい。
以上の発表に対し、次のようなコメントを頂いた。
 まず、比嘉政夫先生から、「非日常的発話」という用語設定について、誤解を招きやすいと指摘された。非日常的発話というと、本発表で扱ったような発話以上に、さらにタブー性の強い呪言等が想起されるという。本発表で扱った発話を、川平の人がどのように名付けているか、現地のタームをもう1度調査する必要があるとのことだった。このような意見は他の方からも頂いた。今回設定した「非日常的発話」という言い方は今後、より実態を表わす言い方へと考え直す必要がある。
 江口洌先生からは、調査の際に、「どうしてこの場面で非日常的発話を使うのだろう」と違和感を覚えたことはあったか、という質問を受けた。これに対し、豊年祭の午前中に行なわれる「御嶽まわり」の最後に、その年の結願祭の日程が非日常的発話によってスーダイから連絡されることについて、すでに日程表が作成され周知されている日程を何故あらためて言うのかと不思議に思ったことがあると述べた。これは、日程表がまだ作られていなかった頃の名残であり、かつては現在のようにまとめて日を定めるのではなく、年中儀礼を進めながら日程を決めていったのだということを川平の人が説明されたことを続けて述べた。
 真下厚先生からは、八重山諸島小浜島でも、来訪神アカマタクロマタが現われる儀礼の際に方言が使われ、そのため小浜島では方言を話せる若者が多いというご教示を頂いた。
福田晃先生からは、倉林正次『饗宴の研究』を参考文献として教えて頂いた。また、やはり「非日常」的発話という言い方について、かつて多くの人が方言を用いていた時代には、発表で取り上げた発話もさほど「非日常」的ではなかったはずであり、現在の状況において意識化されるようになっている発話であることをふまえ、方言の使用状況を含む時代の変化を整理した上で今回の問題を論じるべきとのご指摘を頂いた。
   酒井正子先生からは、今回問題とした、儀礼特有のタブー性の強いことばと日常のことばの間の、いわば境界上のことばに注目した点においては興味深いことであるとコメント頂いた。また、奄美諸島徳之島における興味深い事例を教えて頂いた。川平で非日常的発話をすることが求められる場面と同様の場面で、徳之島では日本標準語で話すことが求められるという。徳之島では、儀礼の場など、人前であいさつを行なうような地位に就ける人は、日本標準語を流暢に操ることのできる人に限られるという。これは、奄美諸島が早くから「ヤマト」の影響下に置かれていたことと関わると考えられるが、川平の事例とは対照的であり、大変興味深く、いずれ検討したいと考えた。

5.本事業の実施によって得られた成果
   本事業の主な目的であった研究発表に対しては、前項で述べた通り、多くの先生方から有益なコメントを頂いた。今回の発表内容は、石垣島川平の儀礼における様々なことばを考察対象とする博士論文の中でも、形式を持つことば(歌、唱え言等)と持たない言葉の中間に位置する境界上のことばを扱う点で重要であり、この部分について考察していくうえでの方法上の改善点や方向性を得ることができたのは、大きな意味があった。得たことをふまえて、発表内容を論文にし、奄美沖縄民間文芸学会の機関紙に投稿する予定である。
 また今回、奄美の言語・民俗・文化の状況に様々な形でふれることができ、これを報告者の調査地である八重山と比較することを通して、八重山を相対化し、琉球諸島の文化の広がりの中で八重山の文化を捉える足がかりをつかむことができた点も、本事業の成果であった。以下でこのことについて述べたい。
 学会の3日目(9月25日)に、宇検村教育委員会の高橋一郎先生に解説して頂きながら、宇検村内のほとんどの集落を巡って儀礼場や遺跡等を見ることができ、これによって、神道、神山、トネヤ、アシャゲ等から成る集落ごとの儀礼的空間を構成する要素を把握することができた。道に神聖な意味づけを行なうことは八重山では多くは見られないことである。また、奄美では神聖視される神山が集落の背後に聳えていることが多いが、八重山で集落ごとに神聖視される場は森であることが多い。これは、両者の地形の違いに由来する相違であろう。
9月26日には、長田須磨文庫をもつ大和村公民館へ行った。そこで公民館長の中山様から伺ったお話の1つに、昭和38年生まれの人から、方言ができなくなる世代に入るというものがあった。奄美の方言は、目上の人に話すことば、同僚に話すことば、と細かく分かれていて難しいという。それを自然に使い分けられるのは、昭和37年頃までに生まれた人までであるという。その理由として、昭和38年以降に生まれた人にはテレビの影響が大きいこと、集落同士をつなぐ道ができて往来が便利になったことが挙げられていた。道ができてからは集落外から嫁入りする女性も増え、そうなるとその子どもが地元の方言を話せなくなるという。一方、八重山の川平では、方言ができなくなるのは昭和25年以降に生まれた人とされ、奄美よりも10年以上早い時期に、方言の衰退が始まっていることになる。川平で方言が衰退していった具体的理由については今後調査を進めたいが、「ヤマト」に距離的に近く、その影響下に置かれていた時代もより長かった奄美の方が、方言が長らく話されていたということは興味深い。
 9月25日の夜には、宇検村湯湾の八月踊りの練習に参加することができた。10月1日の本番に向けて、10日間位毎夜練習を行なうという。男女が輪になって踊りながら歌を掛け合うということ自体、八重山では見られない。これとは別に、相違点として興味深かったこととして、練習の場で、男性が女性に茶や菓子をすすめたり、男性がごみを集めたりしていたということがある。八重山では、人が集まる場では茶菓や食事を出したり片付けを行なうのは女性であることがほとんどである。ただ、湯湾の八月踊りの、特に練習には、男性は若い人も参加するが、若い女性はヤマトへ就職することがほとんどであるため参加者がおらず、女性には年配者が多い。したがって、男性が女性に、というよりは、若輩者が年配者に対して、茶菓等を給仕していたのかもしれない。    この他にも、ほとんど八重山でのみ調査を行なってきた報告者には以外に思えることがいくつかあった。これらは、博士論文における八重山についての記述に、奥行きをあたえるものとなるであろう。

6.本事業について
   今回は文化科学研究科国内学生派遣関連事業に2度目の参加となるが、本事業に複数回申請できることは大変ありがたい。今後も本事業を活用して調査研究をすすめたいと考えている。
  

 
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