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参加した学会等のタイトル:
イタリア日本研究学会(AISTUGIA)および日本文学国際共同研究集会(ICJS)
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開催場所:
イタリア フィレンツェ ストロッツィ宮殿その他
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開催期日:
平成17年9月22日(木)から平成17年9月24日(土)
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参加した学会等の概要:
今回参加したAISTUGIAはイタリアにおける日本研究の学会である。毎年イタリア各都市の日本研究を行っている大学持ち回りで開催されており、今年はフィレンツェで行われた。会は大変な盛況で、これは長くフィレンッェに在住して日本文化、日本文学の教鞭をとっておられる鷺山郁子先生のご尽力によるところが大きいと思われた。
こうした感慨を受けるに至ったのには、イタリアの日本学の現状を見るとともに、「日本」を研究するすべての海外の研究者と、海外の「日本」学にたいする日本人の認識の相違、さらに言うなら日本人の「海外における日本」への「無知」を感じたように思ったからである。
イタリアにおける「日本」の研究は、おそらく地理的、歴史的、政治的にとどの条件をとっても、恵まれた環境を持つものとは言いがたい。そのため、今学会の開催には多くのイタリアの研究者の方々の多大な努力と、現在までの豊富な研究の成果の積み重ねが必要とされ、そうしたものが一般的な環境からくるハンデを何とか克服してきたという状況があるようである。こういう中、日本のICJSとの共同開催が、AISTUGIAにとっていかに大きな意味を持つものであるのか想像に難くない。
今回こういった意味を持つ共同学会に参加したのであるが、実際にはその発表の多くは聞くことができなかった。というのは、自身交流を持てたイタリアの研究者の方々は日本語に長けた方がほとんどであったが、一方、現在までの長いイタリアの日本学の研究成果はイタリア語によって積み重ねられたきたものであるためか、研究発表ほとんどはイタリア語によるものであったからである。もちろんその研究発表の内容は多岐に渡っている。試みにその題目を挙げると以下のようになる。
「日本現代舞踊の新傾向」「浮世絵―日本とヨーロッパ」「ジュゼッペ・デ・ニッティスと渡辺省亭」「鷹絵」「和紙」「柳田國男と近代国家の概念」「日本における西洋と東洋の地理的概念」「密教美術」「イタリア語―日本語の対照分析と欧州教材バンク・プロジェクト」「日本語における交替統辞構造」「1919-1921年代におけるカトリック教徒と日本政府の合意」「占領下日本における暴力、強姦、慰安所」「戦後日本の国家再建」「現代日本の海軍」「フィリップ・フォン・シーボルトの外交活動」「隠れキリシタン」「『時代閉塞の現状』―石川啄木と国家の概念」「ポスト新劇―唐十郎における継承と実験」「能楽の時間構造」「大陸温帯文化圏における日本古典文学」「『紫式部集』の植物イメージ」「藤原良経『三十六番相撲立詩歌』」「引きこもり現象の分析―西洋の視点から」「日本における人権」「平成の天皇家―変化、国民の反応、将来の展望」「春画と漫画―自然なエロティスム」(このうち「大陸温帯文化圏における日本古典文学」は日本人による日本語の発表。)
概観するだけでも、多彩な視点による日本研究の現在を伺い知ることができる。しかし、イタリア国内でも文化科学一般に対する無理解というものはやはり存在し、その中で「日本学」が置かれている位置というのも、決して楽なものではないということであった。
こうしたいわゆる「苦労話」は今学会のコーディネートに当たっていた、鷺山氏や東京大学フィレンツェ教育研究センターの土肥秀行氏といった現地の日本人研究者の方々から聞いたところである。このようなイタリアにも見える世界的な文化科学への軽視の傾向の中、開会式における在イタリア日本国大使松原亘子氏の話は興味深かった。松原氏はAISTUGIA、ICJSの意義などに触れた後、現在の極東における政治的緊張に対するイタリア国内での反応について語った。特に四月五月ごろの中国各地の反日デモについては、イタリアにおいても連日報道がなされ、それについての識者のコメントなどもメディアを通じて発表されていたという。その内容は、歴史的政治的状況を踏まえ偏向的な視点を廃した、興味本位に陥らない中立的なものであったという。このような意見が広く世に伝えられる状況を支えているのは、やはりイタリアの日本学研究者の存在が大きいのは言うまでもない。松原氏の話は文化科学研究の意義を国際政治の文脈で語るものであった。
今共同学会の中でのICJSの意義は、こういった状況の中で再確認できる。ICJSは日本の国文学研究資料館が行っているプロジェクトで、各国の日本文学の第一線の研究者とのコラボレーションにより、各国における研究状況の情報収集、その整理、さらにはそのデータの公開を目指すものである。ICJSとAISTUGIAのコラボレーションは2001年以来の実績があり、現在までにイタリアにおける日本文学関連の研究者ディレクトリ、研究機関ディレクトリ、研究論文目録データベース、翻訳日本文学作品データベースなどの整備が進められている。ここで蓄積されたデータのほとんどは日本国内ではまったく知られていないものであり、日本から遠く離れた国で、真摯に日本を研究する目があることを、日本人は知らないままでいた。日本国内では、日本におけるイタリア学研究の存在ほどには、イタリアにおける日本学の研究の存在は意識されていないということである。そして、そのため日本から海外に向けて日本学を発信するという努力も行われないままでいたのである。
今回のICJSのプログラムは「日本文学国際共同研究について」「イタリアでの日本古典書籍と調査とその資料」「日本文化のオントロジー「古事類苑」のデータベース化のために」といった、海外の研究者ために有用な、現在までに国文学研究資料館が構築したデータベースについての発表や、海外でも非常に人気の高い能楽についての発表「音の劇詩人観世元雅―平家物語に取材した能を中心に―」などがなされ、最後に「海外における日本文学研究の方法と可能性」をテーマとしたシンポジウムが行われた。途中総研大についての紹介もはさまれたのだが、それにふさわしく学生の出席が目立ち、若い研究者に対して日本文学研究の存在を発信する場としての機能を大いに果たしていた印象を受けた。
国際社会といわれるなかで、日本が世界において果たすべき役割といわれるものについて、しばしば聞くことがある。たとえば国際支援などで、経済的なものに偏ったところから徐々に人的資源の有効的活用が見られるようになったということも聞く。しかし、その本質的な意味での国際性というものを、やはりどこかで身につけずにいたツケのようなものも感じずにはいられない。今回の国際学会はそういったものを気づかせてくれるものでもあった。
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学会等に参加して得たこと:
今学会において、残念ながら言葉の壁厚く、イタリア語における発表は聞き取ることはできなかった。その一方日本語における発表、およびシンポジウムは大変興味深く、日本において知ることができなかったデータベースのことをはじめとして、日本文学の研究動向の把握ができたことは大変有意義であった。一般に日本国内では、このような研究動向を紹介するという形の研究集会は少ないのか、初学者や異なるジャンルの研究者がさまざまな研究についての情報を得る場には恵まれない状況がある。そういった意味でも有り難い場であった。このようにそのひとつひとつの発表等から得たものも大きいのだが、この学会全体から考えさせられたことも私にとっては示唆に富むものであったといってよい。
現在自らの課題としている研究は平安後期の漢詩文についてのものである。このジャンルは日本文学において外来文化の影響をもっとも強く確認できるものとして、いわゆる比較文学の視点から日本漢文を研究する傾向があった。そもそも比較文学についてはその定義は確定されておらず、発生学的な影響関係を調べていくものもあれば、グローバルな視野で作品の鑑賞を行おうとするものもあり、研究姿勢もさまざまである。ここから、日本漢文を和漢文学の比較という切り口でとらえる状況が生まれてくるのであるが、近年では漢文学を日本文学ひとつの潮流として評価する研究も多くなり、こうした単純な方法は既に下火であるといってよいだろう。
だが、彼我の地の文化文学を、優劣を含め「比較」してみたい欲求は一般的に抑えがたいものである。二つ並べて、似ている似ていないと感想を述べ合うだけでもそれは比較文学の視点になりうるのである。かつてヨーロッパの研究者による12世紀のフランスの宮廷文学と源氏物語の比較を試みた論に接する機会を得たことがある。アーサー王伝説と源氏物語の比較文化論も読んだことがあり、有名なところではモンテーニュと兼好の作品の比較などもあるだろう。これらの論には高度に意図されたものがあったのだが、そうでなくとも作品に通じ愛着を持てば、さまざまな形でその対象を検討してみたくなるというのも一般的な欲求だ。外国文学ならば自らの環境に置き換えて読み解くことがあってもいいのである。しかしこうした無邪気で不用意な背景に日本文学を無防備に提供していくことの危険性を、日本人の研究者は自覚するべきなのではないだろうか。
イタリアの日本文学研究者の方々は、その不利な環境の中でも真摯に日本文学に取り組み、日本人にない視点を含んだ研究を行い、それをイタリアの人々に伝えている。現在日本人が意識的に情報を収集できる対象としては、さまざまな条件からアジアの一部と北アメリカの研究に比重が置かれているが、イタリアにおけるものと同じような動きは世界のさまざまなところでおきているはずである。それらを適切に評価していくのは日本の文学研究にとって非常に重要なことなのではないかと思う。
文化の情報を正確に発信すること、収集することの意味を、比較文学の範疇に身をおくものとして、常々考えてきたつもりであったが、今回、このように離れた地における日本研究の現在を見て改めてその重要性を感じた次第である。繰り返すが、イタリアの研究者の方々の研究はすばらしいものであった。だからこそ日本から発信すべき情報を積極的に展開するべきなのだと思うのである。
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