参加した学会等の概要:
私が今回参加させていただいた2nd Global Conference Sex and Sexuality: Probing the critical issues(2005年11月30日-12月3日、オーストリア・ウィーンにて開催)学会には、総数20カ国(うち米15、英13、カナダ2、ドイツ2、オーストリア2、その他チェコ、フィンランド、オランダ、スウェーデン、ハンガリー、南ア、トルコ、日本など各1)から総勢50名ほどの参加者が見られた。本学会は三年間連続で実施される予定の学会・出版のプロジェクトの一環であり、昨年は同じくオーストリアのザルツブルクにて開催されたようである。昨年の学会で発表された選択論文は、すでにM.Breen and F.Peters(eds.), Genealogies of Identity: Interdisciplinary Reading on Sex and Sexualityとしてイギリスで刊行されている(2005)。本年度も学会において発表された全論文がebookとしてインターネット上で変纂される計画になっている。同様に、来年2006年11月にも第三回学会が開催予定であるという。
本学会の趣旨は
- to provide a pivotal forum for the examination of key contemporary issues such as sex and sexuality
- to bring people together in order to begin, sustain and actively encourage open and honest dialogue
とあるとおり、セクシャリティ研究という、これまであまり研究されてこなかったテーマについて海外の研究者が分野を超えて集い、議論を通してこの研究テーマについて理解を深めて新しいパースペクティブを検討するというものであった。
本学会では、次にあげる14のセッションがもたれた(Connecting with others, sexuality and citizenship, sex work, Is there such a thing?, States of desire, SAS in your face, Cheating and Intersexuality, SAS and cultures, SAS and the body, Prisons, Professionals and the real, SAS in India, SAS makes trouble, What dose love have to do with it?, Pornography?)。私は、自分尾発表が含まれるSAS in Indiaを始めとする、ほとんどのセッションおよび全体を通した感想としては、
- 英文学、カルチュラル・スタディーズ、批評理論の分野からの発表が中心であり、トピックはクィア、ゲイ&レズビアン、トランスジェンダー研究が主であった。人類学を専攻としている私にとっては文学や批評理論の手法はなじみがなく、議論も極めて難解であるように感じたが、それ以外にも文学やテクスト分析にとどまらず、心理学者によるブラックマイノリティ・エスニック・ゲイフォーク(BMEQ)の精神分析研究、法学者によるクィアの市民権と国家の法律とその可能性、Sex Workerの表象など幅広いテーマが論じられた。
- 英米文学理論で、トランジェスター研究ではJ・バトラーのパフォーマティブ理論を始めとする一連の議論が依然として研究者の間でも最大参照文献であることが分かり、日本の批評理論、現代思想の方向性がそれをよく捉えているということに感心した。が、それと同時に、欧米の学問動向の追従ではなく日本からの研究発信としてどのような可能性があるのだろうか、と考えさせられた。
- トランスジェンダー研究、クィア研究を担う研究者自身の立場性・同一性は他分野と比べてもかなり顕著なように思われた。例えば、それはクィア研究で問われているゲイの「可視性」と、それに対するレズビアンの「不可視性」と同様に、研究者内のセクシャルアイデンティティもその傾向を如実に反映しているように思われ、大変興味深かった。
- Sex and Sexualityという学会におけるヘテロ・セクシャリティ(異性愛)の不可視性・当然性が明らかであった。即ち、セクシャリティを扱う学会において、異性愛はほとんど議論されることがなく、焦点はトランスジェンダーやホモセクシャリティに偏っている。もちろん、これまで等閑視されてきたマイノリティとしてのホモセクシャリティを学問の俎上に乗せて議論することの政治的意味や価値は明らかであるが、例えば「ジェンダー」研究における「男性」の欠如と同様に、どちらか一方に偏ってしまっては、問題があるのではないか、と感じた。
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