参加した学会等のタイトル:
アジア太平洋地域におけるグローバリゼイション、ローカリゼイションと日本文化:
その研究の過去・現在・未来

開催場所:
香港中文大学

開催期日:
平成17年9月30日(金)から10月4日(火)

参加した学会等の概要:

アジア太平洋地域におけるグローバリゼイション、ローカリゼイションと日本文化:その研究の過去・現在・未来と題する国際シンポジウムが9月30日から10月4日まで5日間にわたり香港の中文大学で開催された。30日は開会式と基調講演、1日と2日は四つの会場にわかれて分科会があり、3日と4日はフィールドスダディーとレクリエーションが行われた。シンポジウムは日本と香港の学者をはじめ、ベトナム、インドネシア、フィリピン、シンガポール、マレーシアなど東南アジアの各国とオーストラリア、アメリカ、イギリスの学者を招いて日本文化及び周辺のアジア各国との関連、相互影響など43の演題という豊富な内容で、多方面から世界化の背景の下にある日本文化のありかた、行方を検討した。

発表はおもに以下の四つのセッションにわけることができる。

  1. 日本に対するアジア各国の歴史認識の問題
  2. 日本とアジア各国の人的交流、および政治、経済の交流
  3. アジア各国における日本研究の歴史と教育現状 
  4. アジアにおける日本のポピュラー文化とその影響

主に参加したセッションは1日目の「アジアにある日本のポピュラー文化」、二日目の午前の「歴史と地方紛争」と午後の「都市の建設とグローバル」であった。最初にシンポジウムのテーマから短絡的に連想すると、たぶん穏やかな文化的交流を話し合う会になると思っていたが、案外歴史問題や日本のアイデンティティーの問題などを大きく取り上げたのは印象的であった。確かに東アジアと日本の関係を検討するなら、歴史問題を語らずには通れないかもしれない。日本と周辺の国々に戦争と侵略の歴史があり、それをどのように受け止め、今後の友好関係を妨げないように努力するのは今日のグローバル時代においては正直に考える必要があるであろう。歴史の問題といっても完全に解決したとはいえないし、現に日本と隣国とがギクシャクになるたびに、歴史問題がいつも浮上し、議論の的になり、隣国との感情を大きく損害されるのは事実である。発表のなかで「植民地的近代」という「植民地支配」と「近代化」を結びつく近年しばしば聞かれる議論があり、個別のケースが多くあげられるが、これに同調するにせよ批判するにせよ、日本の植民地支配が各国に用いた制度・秩序などの変化はどのように内部で受け止めたのか、どのような反応を示したのかを検討する価値があると考えている。それは政府間のやりとりや知識人の議論などにとどまらず、より一般民衆の反応を示した資料を発掘し、持続性のある生活と文化のレベルからどんな影響があったのかを検討するのが妥当だと考えている。

文化の交流は相互理解の架け橋として、いつの時代も珍重されてきた。日本の現代文化に映画やドラマ、マンガ、アニメなどいわゆるポピュラー文化の輸出はアジア各国に大きな影響を及ぼした。もちろん一方では日本文化を宣伝するため、大量の生産を望まれたが、もう一方では海外の海賊版の生産などにより権利の被害も蒙った。日本政府にとってこういったジレンマに直面しているが、その裏には、日本のポピュラー文化を真剣に受け入れ、生活スタイルまで影響されたアジアの若者が大量に出現し、日本文化を受容する土台も培われたのも認めなければならない。映画であれ、音楽であれ、最初は完全に日本の製品をコピーし大量生産されたが、漸く日本の様式を吸収しながらも、自国の風土に適合する新しい文化を生み出すのは共通するプロセスになった。日本のほうもアジアの同業者と連携し、他国文化から新鮮な要素を見出し、吸収した。このように文化の借用、吸収と自文化の産出のプロセスはグローバル時代の文化交流を考える際たいへん有益な示唆を与えたと考えている。

明治時代以来、日本は東方の強国の地位を獲得し、同じアジアの隣国に対し、明らかに優位性の感情を持っていた。戦後の経済成長の奇跡は一層この感情に拍車を掛けた。しかし、90年代のバブル崩壊後、日本の経済は低迷する一方であった。同じ時期にアジアの隣国は猛スピードで発展を遂げた。都市建設の面では、戦後は主に西洋の都市をモデルとしたが、もっと身近なアジア諸国の中でも、日本の風土に合うようなモデルがあるという提案もあった。日本と東アジアの各国との交流は日本のアイデンティティーを再構築する際、必要不可欠の課題になった。ある意味では今の日本文化は「アジア返還」の時代になったのかもしれない。


学会参加以外の日程について:

29日に入港許可を取るため、中国南部の都市―広州へ行った。そこで四大嶺南庭園の一つ―余蔭園を見学できた。

余蔭園は広州市と隣接する番禺市にある広東清代四大名園の一つで、余蔭山房とも呼ばれる。郷試に合格した南村の烏燕天が烏家の繁栄を顕示するため、1864年(清の同治3年)に名工を招いて建設した庭園である。そのメインとなる池の北部にある深柳堂は、主の書斎として使われていた建物で、基本的には蘇州の庭園様式を取りいれているが、庭園部分は過多の装飾と婉曲の表現を見ず、江南の水郷風景と違う造園様式を取っていた。

3日には香港の九龍公園、ウィドリア公園など香港の公園を見学した。香港の公園は主に市民の憩いの場として維持されている。広い敷地の中にテーマパークみたいにいくつかに区分されている。珍獣などの養殖と鑑賞を主とした部分があり、迷路みたいな刈込みを園遊させる部分もあり、広い芝生の上で太極拳の訓練場として整備された部分もある。とくに九龍公園のなかには、「中国園林」と題する区域があり、入ってみると、完全に蘇州園林の再現である。仮山があり、長廊があり、池に金魚と亀を養っている。歴史は浅いとはいえ、基本的な形は完備して、市民の憩いの場として、また中国文化を紹介する設備としてうまく営んでいると思っている。

学会等に参加して得られたこと:

まずいろんな意味で研究視野を広げることができた。世界各地の学者を一堂にし、日本と周辺のアジア各国との交流、歴史、産業、文化のあらゆる方面での相関関係を議論することができた。今日のグローバル時代において、日本のアイデンティティーをどのように認識すべきか、新たな課題もできた。一国の文化はその国で完結するのではなく、周辺の国への伝播のプロセス、または逆に周辺の国からの吸収のプロセスが含まれている。中国のことわざに「不??山真面目,只?身在此山中」(山の真ん中に身を置いたら、その山の本当の姿は見えなくなる)というのがある。文化を検討する際、自国の内部だけで消化するだけでは、結局全面的な認識は得られない。文化の真髄が分からなくなることもある。この意味で、外からの視線は文化研究に極めて重要である。

近代の日本はアジアで経済的優位性を持ち、また文化の面では、ポピュラー文化を代表としたジャンルで、アジア諸国に及ぼした影響が大きい。現に各分野からそれらの影響が浮き彫りになり、社会現象にもなったことがある。これらの文化現象を研究するとき、日本からの一方的な視線では解釈しきれない部分がたくさんある。そこで、アジア諸国が、受け入れる側面から日本文化に対する姿勢と対応の仕方を検討し、また異なったレベルでの受容プロセスを考察することで、より一層日本文化を理解できると考える。海外で日本文化をどのように理解または誤解し、自国の文化土台とつながりながら新しい文化を形成するのはグローバル時代での文化交流を考える時、たいへん有益な示唆である。

博士論文では、江戸時代の庭園における景観構成の歴史的変遷と現代的意義を取り扱っている。江戸時代における庭園景観の内部構成は、日本伝統の名所旧跡景観の見立てが重用されつつも、江戸の風土、武家の趣味教養と社会情勢に応じ、中国や西洋庭園の景観と手法も進んで取り入れ、後代造園に多大の影響を及ぼしてきた。当時の造園をめぐる諸相を、それを支えた社会のまなざしの上に再評価することを試み、さらに現代のランドスケープと都市計画研究における意義を検討したい。

文化はその独自の連続性を持っている。江戸時代の庭園文化も同様である。一方では、積極的に他国の造園手法と景観を取り入れ、一種の時代的モダンになり、大量にコピーされた。その後ようやく自国の風土に合わせるように、取り入れた景観を改造ないし象徴化させ、独自の庭園文化を生み出した。それは現在日本のポピュラー文化の取り入れ方と似たようなプロセスを持っているのは興味深い。

こういった庭園を研究する際、原風景になる方と受け入れる方の両方が重要だと考える。この意味で、今の庭園研究はグローバルな観点に立つべきであると考える。今日の社会文化状況と、江戸時代の庭園に取巻く社会的な事情は無縁でない。現代の観光立国、景観法、郷土風景、文化的風景などといった数々のキーワードとの関連から眺めると、庭園に外的な刺激に触発された部分が多く、庭園研究と都市計画の関係を考え直すきっかけにもなった。こうした視点から江戸時代の庭園の景観構成を、周辺のアジアの視線ないし世界的な規模の交流と変動の中で考えてゆきたい。その変遷の原因を社会のまなざしの上から再定位・再評価すべきだと考えている。



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