参加した学会等のタイトル:
ヨーロッパ日本研究協会日本研究会議

開催場所:
ウィーン大学

開催期日:
平成17年8月31日(水)~9月3日(土)

参加した学会等の概要:
本レポートでは、EAJSにおける報告の特徴が把握できた東京裁判研究〔高取由紀〕、自己研究と関連する天皇制研究〔Olavi Falt〕、報告と議論が非常に盛り上がった現代演劇研究〔平田オリザ〕の3報告に焦点を絞って報告をします。

①歴史学部門:高取由紀氏(ジョージア州立大学):Remembering the War Crimes Trial: The 'Tokyo Trial View of History'

(1)報告概要…高取氏は、東京裁判開催時のA級戦犯や知識人の同時代認識、1970年代後期後の右翼系の政治家と学者の歴史認識〔東京裁判史観〕、現代歴史家〔荒井信一〕の歴史認識など、東京裁判を巡る歴史認識の変遷と特徴〔形成と歪み〕を報告しました。そして、東京裁判の成功とは、「根強い平和秩序の基礎を創出したこと」であり、東京裁判の失敗とは、「新たなる戦争〔論争〕勃発の発端となったこと」であると結論しました。

(2)報告特徴…私が把握できた報告目的は、参加者へ東京裁判研究の概要紹介と、自己研究の独自性発表の2つでした。報告者に限ったことではないのですが、30分以内の報告の中で、研究概要の紹介と研究独自性の発表の境目がやや曖昧でした。つまり、どこまでが既成研究で、どこからが独自性なのかがはっきりしないという欠点を感じました。これについては、一方で報告者の側に立てば、概要紹介と独自性の境目を明確化する必要性を考えましたし、他方で参加者の側に立てば、報告に内在化された各力点を発見する必要性を痛感しました。

(3)報告者へ対する自己質問…第1に、<東京裁判のねじれ>に関して質問しました。日本とアジアの戦争がメインで、日本と米の戦争がサブだったアジア太平洋戦争と、日本と米の戦争の後始末がメインで、日本とアジアの戦争の後始末がサブへすげ変わった東京裁判〔一回目のねじれ〕と、1970年代後半以後につくられた東京裁判史観〔2回目のねじれ〕という、<東京裁判のねじれ>があるのではないか。更に、今現在に東京裁判を考察する研究者の歴史認識にも<ねじれの再生産>の危険性があるのではないか、と質問をしました。

第2に、東京裁判開催時の知識人の同時代認識に関して質問しました。高取氏は知識人が東京裁判を批判的に把握したと報告しましたが、私はこの知識人批判が外在的な批判だったのではないかと質問しました。知識人達は、自分自身へ跳ね返ってくるような内在的な批判をなしえたのか?それとも、自分自身の生き方を度外視した軍人は悪玉で、知識人と民衆は被害者という外在的な批判をしたのでしょうか?ここでは、天皇とGHQという責任曖昧化の2大勢力も重要です。

第3に、東京裁判を巡る歴史認識の分析に関して質問をしました。具体的には、日米の政治的妥協の産物であるA級戦犯にとっての歴史認識、戦争指導者から擦り付けられた戦争責任や、アジアへ対する戦争責任の主体的な考察の可能性など各方向性を秘めたBC級戦犯にとっての歴史認識、東京裁判を傍観する立場の民衆にとっての歴史認識、右翼と左翼にとっての責任主体形成の契機などです。これらの各人の歴史認識の収集と整理なくして、東京裁判研究が進展しないことが確認できました。

②歴史学部門:Olavi Falt (University of Oulu):The Showa Emperor as Memory. A Dichotomous Symbol of a Dichotomous Period in History

(1)報告概要…1989年1月~2月の各新聞〔ジャパンタイムズ、毎日デーリーニューズ、毎日新聞と朝日新聞〕の分析を通じて、昭和天皇が時代の何を象徴したのか考察しました。そして、天皇の象徴としての役割は、戦争責任・平和と民主主義などの問題に集中したことが報告されました。

(2)報告特徴…新聞メディアを材料にして、昭和天皇が象徴した戦争責任・平和と民主主義を考察しましたが、新聞メディアのみを一面的に追ったために、天皇が象徴だったという考察が不十分でした。メディアの天皇イメージはあくまでイメージ創出の一つであり、その天皇イメージを受け入れる社会の分析にまでは到達しない点が課題でした。

③芸術部門:平田オリザ:Meet Hirata Oriza (II)

(1)報告概要…第1に、戦後文学と戦後演劇を比較整理しました。ⅰ大岡昇平・埴輪雄高〔インテリが極限状態を経験することで現実感覚を持つ〕。ⅱ林芙美子〔大衆作家が戦争体験を通じて社会性を持つ〕。ⅲ戦後演劇は無かった〔新劇は、最後まで近代演劇として成熟することは無かった〕。

第2に、新劇、アングラ劇、伝統演劇、90年代演劇を比較整理しました。ⅰ新劇=近代劇〔言語・理性中心主義、心理分析、ロゴス〕。ⅱアングラ小劇場運動=アンチ近代演劇〔身体中心、本能・衝動・情念、無意識、パトス・エロス〕cf人間はそんなに理性的に喋るものではないではない。ⅲ伝統演劇〔エトス・歴史性〕cf祖母や父が昔からやっていた演劇。ⅳ90年代演劇=人間はそんなに主体的に喋るものではない。複雑系の演劇〔多数の異質な要素が複雑に絡み合い、相互作用しながら一つにまとまっているシステム。それぞれの要素からは予測できない特性が出現する。微細な変化が系全体の激変を引き起こす〕。第3に、近代演劇と90年代演劇を比較して、後者の特徴を報告しました。中世演劇では、教会などを中心にして「主体は環境に規定される」、近代演劇では、欧米ヒューマニズムなどを中心にして「主体は自己意識に規定される」と整理した上で、90年代以降の現代劇の新たなる問いかけは<主体の範囲の明確化>にあると報告しました。例えば、Aさん〔自分〕と、Cさん〔相手〕の、話しかけやすい距離や関係性を<主体範囲>として把握するということです。

(2)報告と会場質問。平田氏は、日本で戦争の話をする際には、軍人が悪くて、庶民は犠牲者という図式が一般的であり、逆に言えば、庶民の戦争加担と植民地は視野に入っていないと批判しました。同様に、戦後の演劇界と戦争体験に関して、演劇界は演出家の被爆体験のみを強調して、演劇界の戦争協力を許す神話を創出したと批判して、この時、演劇界は、戦争責任を自分たちの問題として内在的に考えるチャンスを失ったと評価しました。又、世界の富の10%を独占する日本人には、もはや広島長崎を訴えていく力が無いのではないか、と広島長崎の限界性を指摘しました。会場からは、この点に関する反発は強く、広島長崎を人類史という視点で把握すれば、人類未曾有の悲劇としての普遍性な力を持つのでいかという反論が起こりました。

(3)報告者へ対する自己質問…私は、演出家と役者と観客の関係性を踏まえた場合、受け手は一体誰なのか、又、その受け手が作り手へ求めるものとはいったい何かと、演劇と観客の関係性を踏まえて受け手である観客のニーズと演劇への制約を質問しました。平田氏は、まったく分からないと答えて、演出家は130年の短い歴史しかなく、役者は理解不能の作業であり、演出家の自分はやりたいことをするだけであり、観客には勝手に考えてもらうと答えました。

学会参加以外の日程について:
ヨーロッパにおける戦争博物館の情報収集:(1)ウィーンの戦争展示(2)ポーランドのアウシュビッツ。

学会等に参加して得たこと:
①高取報告では、(1)既に知られている史料や研究書の紹介だけでなく、自分なりの史料分析や研究方法論を提示すべきであるという自己課題が明確化されました。(2)日本におけるアジア太平洋戦争と後始末の中心テーマの東京裁判へ対して、研究者自身が如何なる歴史認識を構築せねばならないのかという自己課題が明確化されました。

②Olavi Falt報告では、(1)現在、歴史学で流行の表象研究の一端が伺えました。そこでは、メディアに表象された天皇イメージから戦争責任と平和と民主主義を考察しようとする意図が伺えました。

(2)メディア表象に見る天皇イメージという報告の反面で、戦争責任と平和と民主主義にとって天皇〔制〕が一体如何なる意味を持つのか、そもそも何故天皇〔制〕を研究すべきなのか、といった天皇制研究の問題意識の弱さが欠点として把握できました。天皇制研究から一体日本近現代史の何を明確化したいのか、何故天皇制なのかという問題意識を深化すべきだという自己課題が明確化されました。

③平田報告では、(1)<主体の範囲の明確化>が、共和主義の自己と他者との関係性や公共性を考察する上で、転用できる考え方であること、(2)思想運動の作り手と受け手の関係性や、受け手が作り手へ求めるニーズと制約へ注目すべきという自己課題が明確化されました。

④EAJS全体に関しては、(1)報告上の注意として、概要紹介と独自性の区分けの明確化が重要であるということ、決められた時間内報告でないと参加者へ対して失礼であることなどが理解できました。(2)欧州において、日本研究者のコネクションが開拓できたことは、今後の研究会情報や、自己報告のチャンスが広がったために有意義だった。(3)EAJSでは、欧米系の報告者は、口頭のみの英語報告がほとんどだったが、日本人の報告者はレジメ付の英語報告や日本語報告が多かった。(4)やはり、自分の言葉〔英語〕の限界性は浮き彫りになった。今回つかんだことは、英語の研究会では、1つの報告に1つか2つあるキー概念を把握することが全体議論の趣旨を理解するポイントになると把握できた。

⑤博士論文との関連性については、自己研究の<近代日本における自由主義的共和主義>にすぐさま直結する議論には触れられなかったものの、(1)アジア太平洋戦争に関する研究者自身の歴史認識を明確化する必要性、(2)欧州における表象研究などの天皇制研究の動向確認、及び日本研究の動向確認、(3)天皇制研究の問題意識を深化させる必要性などが、博士論文執筆の参考になりました。

 

【↓クリックすると動画・音声が流れます】



※IEのみの対応となっております。
※パソコンの音量の調節をお願いいたします。