参加した学会等のタイトル:
国際シンポジウム「世界的視野における日中文化」

開催場所:
中国 北京 北京師範大学

開催期日:
平成17年9月10日(土)から9月11日(日)

参加した学会等の概要:

国際シンポジウム「世界的視野における日中文化」は北京師範大学文学院と早稲田大学古代文学比較文学研究所の共同開催である。日本側からの参加者は15名(内1名は北京大学より参加)、中国側からの参加者は10名、総勢25名の発表を二日間で行うという日程で、大変充実したシンポジウムであった。

一日目は開幕式に始まった。基調講演は、北京大学比較文学比較文化研究所所長厳紹■(■=「湯」の下に「玉」)氏の「日本の古代文学を発生学から考える」、早稲田大学文学学術院教授新川登亀男氏の「「聖徳太子」と戦後60年」であった。厳氏の講演は梅原猛の古代学を踏まえ、その上で「文化コンテクスト」という文脈のなかで日本文学の再確認を試みようとするものであり、一方新川氏の講演は「聖徳太子」という表象が、歴史的文脈の各位相のなかでどう配置されるのかを見ることにより、日本の戦後の文化のみならず、社会的動向にも言及するものであった。

シンポジウムを終えて振り返るに、この基調講演が文字通り「基調」であったと思えてならない。シンポジウムの表題「世界的視野における日中文化」というのは、比較文学・比較文化の学問的累積を意識してのものであるのは間違いない。しかし一方、従来の比較文学的手法の限界を超えている面もあったといえよう。ここでは文字通り日中の学問成果の突合せ・比較が一所で行われ、その討議は当然、国内の学会とは異なるさまざまな学問手法、視点、背景のぶつかり合いとなり、研究の可能性の広がりを感じさせるものであった。

研究の広がりを生み出すという意味では、異なるジャンルの専門家が、主に「日本文学」についてをテーマに研究報告を行っていたということによる効果もある。厳氏は比較文化、新川氏は歴史学の専門家であるが、それぞれの専門分野の研究視点を以って日本文学へのアプローチを行うということは、もうひとつの「世界」を感じさせるものであった。こうした二重の意味での世界性をもったシンポジウムの意義は大きいといえよう。

一日目は基調講演に続き、時代で言うと上代から中古までの文学についての研究発表が行われた。これはたまたまのことであるが、発表者の研究ジャンルを時代順に並べていくと、そのまま発表者自身の研究キャリアの位置づけと矛盾なく並ぶこととなっていた。そのため、二日目には若手の研究者による中古から戦後にいたる研究発表が行われ、一日目の発表者である豊富な経験、深い学識を持った先生方によるアドバイスは、発表者以外の参加者にとっても大いに意義のあるものであった。

一人に与えられた時間は、質疑応答も含め25分と短いものであったが、国際シンポジウムというものの多様な可能性を考えるとやむなしといった感もある。多くの参加者による、多くの研究成果を洪水のように受け止めるという経験は、相応の疲労を伴うものではあったが、その場にいたものすべてに充実感を起こさせるものでもあったからである。海外の研究者の動向に触れるという単純な効果のみに止まらない、貴重な経験ができる場であった。


学会等に参加して得たこと:

今学会に参加して最大の成果は発表を行えたこと自体である。上記にあるようなアドバイスを受けたことはもちろん大変ありがたく、今後の研究を考える上で大変貴重なものとなった。二泊三日共にすごさせていただく中で、日本で行われる学会よりも詳しくアドバイスを受けられたことは幸いというしかなく、またそこから関連して多岐にわたる研究のヒントをいただくチャンスも得られた。こうした云わば特例的な交流は学生の身分では身に余ることであったといってよいだろう。

しかし、さらに言うならこの発表が海外の研究者に向けてのものであったことの意義はわたしにとって非常に大きい。まず、専門用語はもちろん、われわれが日常的と考えている日本語すらをも使い慣れていない人々の前で、いかに自分の論を分かりやすく展開して見せるかということは、発表を聞く側の努力に任せがちになる姿勢に対する反省となった。簡潔に分かりやすく持論を述べるということは、自己の論に対する完璧な理解の下において行われるもので、自分自身に曖昧な点がある際にはそれはなし得ないということも分かった。言うまでもなく完璧な理解というのは、それまでの研究の厚み、深さによるもので、自分の研究に対する非常に厳しい姿勢が求められているのだということであり、これは国内の学会においても当然気をつけていることではあるが、共通認識を前提とした説明に関する部分など、その前提に頼って論を進めて行くことは仕方ないともいえる。海外ではこうした共通認識はない。その上時間も限られる。自分の論を的確に理解してもらうために、どの部分をどのように述べて行くのかを精選していく作業は大変な試練であった上に、大きな修行となり、今後の国内での発表においてもより自分に厳しくあるべきだという認識を新たにした。こうした意味で研究者としての心構えを学べたのは意義深い。

また、中国のさまざまな研究者との出会いも大変ありがたいものとなった。今回発表した無題詩は国内では現在専門に扱っている方はほとんどおられないのであるが、今回の中国側の発表者の中に、日本の無題詩と中国の詩人寒山の詩を比較文学的に考察している研究者がおられ、その方との意見交換は得がたいものとなった。実際に会って話せなかったとしたら、一見関係のないお互いの研究を結びつけてみることはなかったと思われ、研究者の交流の意義に感じ入ることとなった。

こうして得たものを研究生活に生かしていくの同時に、目下目指している博士論文の執筆にも生かして生きたいと思う。博士論文の執筆については、こうした研究姿勢に関することはもちろんなのだが、各発表者による発表の内容自体も有意義であった。中国での学会ということで、おそらく日本で開催されるもの以上の充実振りで、自らが専門としている漢詩文の発表が行われ、対象としている時代の前後を含めて、先端的な研究成果が一同に介する場にいられたことは、論文執筆のためにも非常にありがたかった。またそれに対する中国の研究者の意見は、作品へのアプローチの仕方において、国内の研究者にはやはりないものがあり、そうした多用な見方に触れることができたのも、自分の論を再考証する上で有効な手段として学ぶことができた。今後の研究に組み込んで行くべきさまざまな情報を得られたことを深く感謝するところである。




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