一戸渉(日本文学研究専攻)
1.事業実施の目的 【h.海外フィールドワーク派遣事業】
  

ハーバード燕京図書館における日本近世中後期学芸資料調査

2.実施場所
  ハーバード燕京図書館(Harvard-Yenching Library
3.実施期日
  平成19年7月1日(日)~7月8日(日)
4.事業の概要
    2007年7月1日より同8日にかけ8日間(うち移動日は3日)に渡って、ボストン近郊のハーバード大学構内にある中国、日本、韓国、ベトナムなど、東アジア地域における人文社会科学一般に関する専門図書館である、Harvard-Yenching Library(ハーバード燕京図書館)に赴いて調査活動を行った(address:2 Divinity Avenue, Harvard University, Cambridge, Massachusetts 02138 USA)。ハーバード燕京図書館に所蔵される日本古典籍は、近世期に出版された板本が過半を占めているが、写本類も少なからず含まれており、それらの中には日本国内には現存していない書物も認められる。本事業は、報告者の専攻する近世中後期の上方地方における文学・学芸に関する資料を中心に、同館の所蔵する日本古典籍のうち、近世中後期日本の上方文芸資料について、原本に即して書誌及び内容面に関する調査を行おうとしたものである。
 ハーバード燕京図書館は現在の北京大学の前身である燕京大学の蔵書を核として、その後継続して収集された日本古典籍(明治以前に日本において出版・書写された書物)の膨大なコレクションを所蔵する。それらの大半は岡雅彦、青木利行著『ハーバード燕京図書館和書目録』(ゆまに書房、1994年)によって目録化されているが、そこに漏れた資料も少なくなく、現在もなお調査は継続されている。そうした先学の調査成果を踏まえつつ、本事業では、未だ内容面に渡る十分な調査が進められていない、燕京図書館の所蔵する近世期日本の学芸資料について調査を行った。
 以下に、本事業を行った8日間における具体的な日程について報告する。7月1日、成田空港より航空機でボストンへ向け出発、途中シカゴ・オヘア空港にて乗り継ぎを行い、同日夜に現地ボストンのホテルに到着した。
 7月2日より同月6日にかけての5日間、連日ハーバード燕京図書館へと赴き、近世中後期における文学・学芸に関する日本古典籍の調査・閲覧を行った。閲覧を行った資料の点数は総計14点。それぞれについて書誌情報の採取及び、内容面における検討を行うとともに、必要なものに関してはデジタルカメラでの撮影を行い、文献の収集・調査に努めた。7月7日にボストン空港よりワシントン・ダレス空港を経由して、7月8日午後、成田空港へと到着した。
5.本事業の実施によって得られた成果
 

 今回の事業でハーバード燕京図書館において具体的に調査を行ったのは、近世期上方の諸文人による著述、とりわけ和学や漢学、和歌及び漢詩文に関する資料14点である。原本に即してそれらの書誌情報を採取し、また内容面の検討を行った上で、必要なものに関してはデジタルカメラでの撮影を行った。それらは、当時の上方文人の学問・学習のあり方や、人的・物的・知的な交流の様相について理解してゆく上でも極めて重要なものであった。今後、各資料の詳細な検討を進めてゆくことによって、そうした点についてより一層の明確化が図られることが期待されよう。また、ハーバード燕京図書館所蔵の日本古典籍の多くには、その購入先などについての記録が付帯しており、その集書活動についての一端が伺われたのは、思い掛けない成果と言えるものであった。
 ここでは、今回調査を行った資料のうち、『必庵詩草』と題する資料について、その概要を報告する。
本書は、写本5冊、総計224丁にも及ぶ大部な漢詩文集で、著者は恵晃真瑞(太華上人)なる人物である。本書の内容から判断するに、恐らくは京に住した天台僧か。なお、「必庵」は堂号であろう。佐井幹曼卿なる人物が安永5年(1776)に草した序文が付されており、それに拠れば、前年に没した友人太華の残した詩藻がこのまま世に埋もれてしまうことが忍びなく、せめて仲間内で永く伝えんことを願って編まれたものが本書である。序文には曼卿の印も捺されており、本書が彼による自筆稿本であること疑いない。本資料は日本国内では所蔵が確認できず、この燕京図書館本が今のところ唯一の伝本である。
 また、本書の内容も実に興味深いもので、とりわけ漢詩の引題に見える人名に、天台僧の金龍道人敬雄や、この時期の京洛詩壇に名を馳せた龍草廬、『近世畸人伝』の著者として知られる伴蒿蹊、伊勢の田淵徳郷、大坂の木村蒹葭堂や那波魯堂、安房勝山藩主の酒井忠篤に仕えた木蓬莱など、実に多種多様な文人たちの名前が多数見える点は注目されよう。この他、伝記など容易に知り得ないような人物の名前も少なくない。従来その存在を知られていなかった本書は、こうした18世紀中葉の上方における文人たちの学芸活動を垣間見させてくれる好資料と言えるものである。本書の内容について詳細な検討を進めてゆくことは、近世期上方の学芸史の間隙を埋めることに繋がるものであり、また在外古典籍調査の必要性を改めて認識させられるものであった。

6.本事業について
    本事業の存在によって、これまで経済的に困難であった海外での調査活動を行うことができたことは、誠に有り難いことだと感じている。実証的な研究を進めてゆくにあたっては、こうした国内外でのフィールドワーク及び文献資料の収集・調査が不可欠であり、是非今後とも継続した支援を願いたいと考えている。