中嶋直樹(比較文化学専攻)
KalasanaCon_Trinchera2007

残存する壁石
Terraza
1.事業実施の目的 【h.海外フィールドワーク派遣事業】
   ボリビア共和国におけるフィールドワーク調査
2.実施場所
  ボリビア共和国
3.実施期日
  平成19年7月10日(火)~平成20年3月3日(月)
4.事業の概要
 

 2008年7月10日から8ヶ月ほど、学生イニシアチブ事業の一環で、海外フィールドワーク派遣事業によって、南米はボリビア共和国における考古学調査を行った。
 本調査では、先スペイン期の古代文明の形成過程に焦点を当て、古代国家誕生直前の時代の遺跡、二ヵ所をを発掘した。ボリビア共和国ラパス県にある公共建造物遺跡であるカリャマルカKallamarka(別名Kalasana)遺跡、住居址遺跡であるカンタパKantapa遺跡の二遺跡である。これらは距離にして500mほど離れており、時代的にもほぼ重なる遺跡と見られている。
 先スペイン期南米大陸には、かつて我々と同じ黄色人種であるモンゴロイドによりアンデス文明が形成されたが、1532年の白人のスペイン人による侵略と征服によって、その1万数千年にわたる独自文明の長き歴史に幕を下ろすこととなった。このアンデス文明が形成され始めた時期、特に古代国家と呼ばれる複雑化した社会が誕生する直前の時期を、現地では形成期(B.C.1500-A.D.400年ころ)と呼ぶ。
  本調査は、この形成期を主に扱い、アンデス文明の南の中心地であるティティカカ湖沿岸の遺跡を調査した。ティティカカ湖沿岸は、かつてティワナク文化(A.D.400-A.D.1100年ころ)と呼ばれる国家レベルの社会が誕生した場所であり、その中心は、ティワナク谷のティワナク遺跡複合であった。この文化は、その後のインカ帝国などアンデス古代国家に大きく影響を与えた国家でもある。本調査は、このティワナク文化が発生する直前に焦点を当て、どのような歴史的流れを経て、ティワナク文化が大成したのかを探ることにあった。時代的には、紀元前400年前後ころから紀元後400年前後にわたる。一部、ティワナク期の遺構(A.D.400-A.D.1100年ころ)も発掘した。当該調査地、二遺跡は、ティワナク遺跡複合と同じ、ティワナク谷の上流域にある。

5.学会発表について
 

ラパス考古学協会において、カリャマルカ、カンタパ遺跡発掘調査報告を行った。
2007年11月9日

6.本事業の実施によって得られた成果
 

 本調査により、カリャマルカ遺跡は、形成期後期(B.C.200-A.D.400年ころ)において、ティワナク谷上流域最大の公共建造物遺跡であることが、再確認された。また、本遺跡は、形成期のみならず、後の時代のティワナク期においても利用されていたことが確認された。ほぼ1500年近くにわたり、機能していたことになる。
 遺跡は、ほぼ東西南北にそっており、丘状の地形を利用して、基壇状に整形されている。遺跡は、西側のテラス、東側の広場の二構成で、その間のやや狭い部分がもっとも高くなっている。西側には2段のテラスがある。このテラスの擁壁が最も残存状態が良い。東側は、東西40x南北50ほどの矩形の広場があり、周囲が砂岩製の割り石か自然石(風化が激しく見分けがつきにくい)で囲まれている。しかし、現在では、かなり抜き取られており、ほとんど残っていない。広場中央から東側にかけ、構築物の残存と思われるか壁石が一部見られる。広場への入り口は東側に設けられていたと思われるが、階段などは残っていない。
 発掘は、遺跡軸の東西南北にそって、十字状に試掘溝を入れた。幅2mほどである。2mごとにグリッドをもうけ、幅10-20cmほどのアゼを各ユニットごとに残しておいた。ただし、一部は発掘中の大雨により崩れ去ってしまった。一部、北トレンチと東トレンチ、南トレンチの脇に拡張ユニットを設けた。ただし、遺構の残存状況を確認するためであり、そのほとんどは、表土のみはいだ状態で止めている。
遺跡は、堆積が非常に薄く、表土直下の第二層目からすでに崩落した壁石や構築物の基礎部が出土した。
 現在まで残存する遺構は、東トレンチ(形成期後期)に集中しており、一部、北トレンチ (ティワナク期)にも見られた。西トレンチは表土直下の2層目に形成期の生活面があり、それは同時に、自然層の地山であった。一部は自然の流路のようで礫が固まっていた。南トレンチは土壙が集中していた。土壙内の遺物は、形成期中期後期の土器、石鍬を中心とする石器、ラクダ科動物を中心とする骨などが主であるが、一部は灰層をもつものもあった。
  東トレンチの表土直下の二層目からは、形成期の遺構が見つかっている。ただし、この層は埋土の可能性が高く、意図的に前の時期の構築物を埋めているようであった。そうなると、本来は、さらに上層に別の時期(おそらくティワナク期)の生活面があった可能性が高いが、現在は何も残っていない。実際、地表面にはティワナク期の土器片が多数散乱している。しかし、表土直下の2層目の埋土からはティワナク期の土器片は出土しておらず、多数の形成期後期と、わずかな形成期中期 (B.C.800-B.C.200年ころ)の土器片のみであった。遺構は、構築物の崩落した壁石や基礎部の壁石である。2列からなり、30-40cm前後の大型の自然石を利用している。石材は砂岩であり、遺跡近くから採取されるものを利用している。構築物の残存は悪い。また、この場所は1970年代初頭にフランス人考古学者によって試掘が行われており、すでに情報が失われている部分がかなりあった。さらに、掘り下げると別の時期の生活面が現れた。これらから、形成期には2時期あることがほぼ確実となった。
 北トレンチは、表土直下から、ティワナク期の遺構が出土した。今回、広場を囲む壁石のすぐ後ろから別の壁石が見つかった。これは2列(ほぼ1列と見ても良い)からなり、砂岩の自然石を利用している。ここに、ティワナク期の層がつながっており、現存する広場を囲む壁石の外側に、ティワナク期になると別の壁石が形成された可能性もある。これまで、この遺跡は、その残存する構築物の技法から、形成期のものとされてきたが、ティワナク期にも利用されており、一部はティワナク期に、広場が大きく改変を受けた可能性もある。ただし、このティワナク期の壁石は表土直下の層から出土しており、後の時代の耕作などによって(本遺跡は現在は畑である)、破壊やかく乱が激しい。おそらく、この壁石は、目に見える広場を囲む壁石にしては、高さがまったく不揃いなため、形成期に作られた広場を囲む本来の大型の壁石を支える役目を果たした擁壁の一部であろう。
(以下、2文ほどカットしました)
 北トレンチでは2006年の調査でティワナク期の構築物が見つかっており、そこは、上記の壁石より一段下がっている。広場の周囲の壁からは階段状に下がっていた可能性もあるが、あまりにも表土の近いため、ほとんどが破壊されている。事実、地表面にはティワナク期の精製土器片が散乱している。発掘からは、ティワナク期の土器片はほとんど出土しておらず、北トレンチの包含層から日常に利用されたと思われる土器片が出土している。しかし、ティワナク期の精製土器は出土していない。
  本調査から、カリャマルカ遺跡は、形成期に2時期(両方ともおそらく形成期後期と思われるが未確認)、ティワナク期に一時期(?)の3時期にわたり利用され続けたと思われる。ティワナク期に関しては、堆積の薄さから破壊が激しいため、何時期利用されていたかは、不明であるが、最低でも1時期は利用されている。
 形成期に、現在の広場の形がほぼ出来上がったと思われ、その際に、遺跡広場の東側に集中して構築物が立てられている。一部、階段の残存もみられ、現在では傾斜する広場は、当時は、階段状になって上っていた可能性もあるが、発掘面積が小さいことと、1970年代の試掘により情報が失われているため、現段階ではまだ確認はできない。
 その後、ティワナク期になると、おそらく形成期の層を埋め、その上に構築物を立てたと思われるが、北トレンチの一部にティワナク期の構築物は残るのみであり、広場全体がどのように利用されたかは不明である。ただし、南トレンチや東トレンチは、表土直下に灰褐色の砂質粘土層(ただし、ティワナク期の土器片を一片も含まない)によって、意図的に埋められ均された形跡がある。そのため、この上にティワナク期の生活面があった可能性もある。地表面にはティワナク期の精製土器が散乱しており、そのことを示す。ただし、広場は傾斜があるため、地表面の土器片は、広場のより西側の高い場所から流れてきた可能性が高い。東トレンチは、フランス人考古学者によって、広場を囲む壁意思周辺が徹底的に掘り返されており、広場を囲む壁石と広場内部の形成期の各層とのつながりは、断ち切られている。トレンチをさらに拡張することで、つながりを確認できる可能性もあるが、時間と資金との勝負になるだろう。
 現段階では、形成期の後期ころ(場合によっては中期)ころ、本来の傾斜地形を利用して周囲を削って基壇状に整形し、そこに広場を作り割り石によって広場を構築した。その際、主に利用されたのは、広場の東半分と見ている。その後、ティワナク期にはいると、広場の北側主に使った可能性がある。しかし、他の場所も利用した可能性がある。すでにティワナク期の生活面はほとんどが破壊されており、確認ができない。構築物全体の構築技法は、ティティカカ湖沿岸の形成期の伝統を受け継いでおり、また、ティワナク遺跡複合にあるカラササヤという名の構築物と形態や構築技法は似ている。形成期の後期からすでにティワナク遺跡複合の強い影響下にあったことが示唆されるが、ティワナク遺跡複合本体における形成期の様相について、ティワナク遺跡複合を発掘した米国調査隊の報告が公開されておらず、具体的な関係は現段階ではわからない状況にある。

 カンタパ遺跡
 本遺跡は、カリャマルカ遺跡から南へ500mほど山沿いへ行った巨大なテラス状台地の中にある。ここは意図的にテラスに改変されているようである。確認のため、テラス擁壁あたりを掘ったが、かく乱が激しいため、住居址のある層とのつながりは不明である。ただし、テラスの東側擁壁についてはその石材の加工方法から形跡のものと見てよい。時間の関係で、この擁壁と住居址の間に設けた試掘溝を下げることができなかった。この間の試掘溝からは、土壙や灰でうめた土壙、構築物の壁石(1列)が出土した。
 本遺跡もやはり堆積が薄い。表土直下や第3層目から生活面が出土しており、発掘中心部では、構築物の壁石の残存(コの字状に残存)および6,7個ほどの炉のあとが出土している。一部は重なっている。構築物の周辺からこれだけの量の炉が出土したのは、今までに例がない。炉からは、焼けた土のほか、焼けた土器片、炉の中心に配された石鍬が出土した。現地で用いられている型式学からは、形成期後期と思われる。ただし、この現地の土器型式については、問題もおおい。今回、これまで形成期中期と考えられてきた土器片がかたまって、おそらく原位置で、形成期後期の土器片を含む層より上の層から出土している。残念ながら、確実に原位置と思われるほど良い状態では出土していないため、確実なことはいえないが、出土した土器片がほぼ集中して廃棄されており、一部は生活面にめり込んでいたこと、これらの土器片がほぼ接合したこと、土器片の集中廃棄が2ヶ所みつかっていることなどから、原位置の可能性が高い。ただし、土器片は黒褐色の包含層中(それでも形跡後期の土器片を含む層より上)からも出土している。土器片の集中廃棄ヶ所は、土器片が重なり合って高さを持って形成されており、そのため、一部は生活面から、一部は生活面を覆う包含層(埋土?)から出土している。これは、土器片集中の2ヵ所ともで見られる。そのため、生活面を覆う黒褐色の包含層は、意図的に埋められた可能性が高い。その理由は、構築物周辺にしか黒褐色土層 (ただし2種類あり、より色調の濃いものは完全に構築物内部のみ) が存在しないこと、廃棄された土器片が重なり合って集中しており、傾斜地にもかかわらず流れ落ちていないこと、2ヵ所の土器片は同じ時期のものと思われ非常に似たつくりであるが接合しないこと、各集中区域内の土器片のみ各々で接合すること、石鍬やハンマーなどの石器を伴う土器が集中的に廃棄されていること、などによる。
 これまで形成期中期と思われていた土器片が、今回の発掘で形成後期のものとなれば、現地の土器の型式学を見直さなければならないだろう。
 ただし、問題もある。ひとつは、今回見つかっている集中した土器の廃棄された層は、表土直下の黒褐色土層およびその下の茶褐色砂質粘土層の生活面であり、表土から非常にに近い(わずか20cm前後)層である。そのため、コンテクストとしてはかなり問題があるいわざるを得ない。発掘したかぎりにおいては、かく乱は受けてはいないが、遺跡が傾斜地に立地することも考慮すれば、層位が逆転している可能性もいなめない。ただし、土器片が重なり合って出土し、それらが接合することを考えれば、かく乱はしてないと思われる。
 炉については、まだ完全に出し切っていない。この層は、構築物と同時期のものである。2006年の調査、および現地の大学による2004年の調査から、この層よりさらに下には、別の生活面があることがわかっている。2006年の発掘区も含めると、形成期中期から形成期後期にわたり(一部はティワナク期も?)利用されていたと考えられる。しかし、これらは、ほとんど垂直には重なり合っておらず、意図的に位置をずらして、形成された可能性がある。ただし、問題は、土器の型式学である。これが崩れると、これまで形成期中期としていたものが、形成期後期になる可能性も出てくる。今後、再度、各層からの出土遺物を精査する必要があるが、最低でも、4-5時期にわたり、周辺が利用されたいたことが確認された。

結果
 公共建造物と住居址遺跡の時代は重なり、出土する土器片も似たものがおおい。公共建造物の埋土からは多数の石鍬が出土しており、そのほかスクレイパーやハンマー、剥片類などが数多く出土した。 現段階では、公共建造物で見つかった形成期の土器に精製土器片が見られない。ラクダ科動物を主体とする骨片なども出土しており、埋土はさながら、廃棄層のようでもあった。生活面には原位置の土器片はない。また、生活面に上場を持つ土壙からも形成期の精製土器片は今のところ見つかっていない。これらの点は、今後の公共建造物の位置づけの再検討にも影響を与えよう。少なくとも形成期後期の公共建造物は、神聖な活動を行う場として日常生活と切り離された空間ではなく、日常生活に密接した場であったかもしれない。また、そこからは神官と一般の農民たちとの間の明確な社会階層の分化についても疑問が生じる。しかし、この点は、今後の住居址関連遺跡の調査で明らかになってくるであろう。
 住居址遺跡からも形成期の精製土器は出土しておらず、日常生活用の土器だけである。ただし、両遺跡とも、現段階ではまた出土遺物の詳細な分析はまだ行っていない。あくまで、精製、日常生活用という区分は、既存の型式に沿ったものであり、修正される可能性も含んでいることを付け加えておく。現段階では、遺物は、簡単な登録作業を行っただけであるが、住居址遺跡出土遺物(カンタパ遺跡)のそれぞれの遺物の組成と、公共建造物(カリャマルカ遺跡)出土の遺物の組成には、それほど大差はないように見える。今後、これら両遺跡出土の遺物の詳細な分析により、当時の生活を理解できるかもしれない。
  公共建造物の広場の地表面にはティワナク期の精製土器片がかなり散乱していることから、形成期に構築されたカリャマルカ遺跡は、ティワナク期に入りより宗教的色彩の強いものになっていった可能性は高い。当該調査地の形成期の精製土器とティワナク期の精製土器はつながりがあることはわかっている。ティワナク期の土器は、文様や形体が様式化されるようになる。形成期に源を持つ宗教的伝統が、ティワナク期になり花開くことになるのであるが、形成期には、これら宗教伝統が、社会階層や権力や権威の保持といったレベルと深いつながりがあった証拠は、現段階ではほとんど見られない。

7.本事業について
 

 まずは、非常に有意義な研究を行う機会を与えてくださった大学院、および学生派遣事業に感謝いたします。競争的資金の獲得が難しくなってくる中、こういった形で大学院みずからが、学生を支援してくださるのは、本当にありがたいと思っています。
 ぜひ、今後の後学のためにも、こういった形での学生の研究支援、特に金銭的な面における支援を続けてほしいと思います。
  専攻を超えた研究活動についてですが、この点は、かなり改善すべきと思います。
  私が行う考古学調査の場合、自然科学系との連携は欠かせません。
ですが、総研大には理系に多くの専門があるにもかかわらず、これらの学科と文化科学研究科の学生や教授同士の交流がほとんどないため、研究を大きく発展させることができません。
  たとえば、放射性炭素分析、動植物遺存体(骨を含む)の分析、鉱物や地質(微少な土層中の遺物含む)調査、花粉分析、珪酸体分析、また自然科学系の学科に備わっている顕微鏡の利用など、多くの調査分析方法が、総研大では可能なのに、これらを博士課程の学生だからということで、また、自然科学系学科との交流がないということで、行得ない状況にあります。
  これは、非常に問題だと思います。
  今後は、学生にも、これら学科同士の交流を通して、基礎研究の向上を図れる機会を設けてほしいです。もっとも、私は卒業してしまいますが。
  また、もしできれば、卒業生にも、完全に博士論文を書き終えるまでの間、あるいは、就職するまでの期間、何らかの形で大学院と、調査の上において、連携できる機会を設けてほしいと思っています。