岡部真由美(地域文化学専攻)
1.事業実施の目的 【h.海外フィールドワーク派遣事業】
   博士論文執筆のための補足調査
2.実施場所
  タイ国バンコクおよびチェンマイ
3.実施期日
  平成19年8月14日(火)~9月13日(木)
4.事業の概要
 

 今回の海外派遣事業では、「現代タイにおける仏教寺院と地域社会の関わり-僧侶の福祉活動をめぐって-」と題し、①僧侶たちの福祉活動を取り巻く政治・社会的背景、②それらの活動に対する寺院周辺の人びとの対応、の二点を明らかにすることを目的とした。具体的には、①については、特に近年のタイ政府の福祉政策の変遷を文献資料から辿り、政策の側が仏教の役割に対してどれほどの期待をもってきたのかについて調査した。その際、複数の図書館を利用して文献にあたったほか、受入教官やその他の現地研究者とのディスカッションをおこなった。また、②については、申請者の主たるフィールドであるチェンマイ県ドイサケット郡D寺と同寺周辺で、僧侶と住民の双方に対する聞き取り調査をおこなった。

<受け入れ機関にて>
 派遣期間中、現地での受け入れを快諾してくださったのは、ヂュラーロンコーン大学経済学部および政治経済学研究所(Center of Political Economy)のカノックサック・ゲーオテープ助教授である。バンコク到着後すぐには面会の都合がつかず、電話での相談となったが、近年のタイにおける福祉政策に関するいくつかの研究書を薦めてもらったほか、タマサート大学社会福祉学部副学部長のキティパット・ノンタパタマドゥン助教授を紹介していただいた。またカノックサック先生とは、申請者がチェンマイでの調査を終えてバンコクに戻った後、改めて面会し、調査・研究内容に対する助言をいただいた。

<現地の研究者たちとの話し合い>
 キティパット助教授との面会においては、欧米の社会福祉制度との比較からタイの社会福祉制度や政策がどのような特徴をもつかといった点について話し合った。さらに、同学部のガモンティップ・ヂャムグラヂャン助教授との面会では、近年のタイ社会において「コミュニティ福祉」と呼ばれる運動が盛り上がっている状況や、その具体的な事例についてもご教示いただいたほか、申請者の研究に対する助言もいただいた。
 また、チェンマイでは、D寺での調査に前後して、チェンマイ市内で研究者数名と話し合いをおこなった。まずは、申請者が2004年~2006年の二年間に長期フィールドワークをおこなった際の受入教官、チェンマイ大学社会科学部ヨット・サンタソムバット教授と面会し、タイの宗教と社会福祉に関する人類学的研究の可能性について話し合った。続いて、同大学人文学部のピシット教授とウィロート教授の二人はそれぞれ仏教思想・哲学研究の観点から、具体的にD寺の事例を中心として、北タイ地域およびタイ社会全般にみられる「開発僧」(phra nak phatthana)について、その思想的な拠りどころや社会的背景などについて説明してくださった。特に、ウィロート教授は、D寺の現住職とともにチェンマイ市内のある寺院で、D寺の前住職の教えのもとに出家生活を送っていた兄弟弟子の経験をお持ちであることから、単に学術面でのアドバイスにとどまらず、過去の状況をいろいろと教えてく下さったことは大変有益であった。

<図書館での文献収集など>
 バンコクでは、受入教官の助言にしたがい、ヂュラーロンコーン大学附属図書館やタマサート大学附属図書館にて、タイの社会福祉政策に関する文献や資料(新聞記事や雑誌記事を含む)を幅広く閲覧し、必要に応じて複写もおこなった。そうすることで、政府政策の側による仏教の役割への期待があるかどうかというだけでなく、近年のタイにおける福祉政策の変遷を広く検討することができた。また、日本の図書館では所蔵されていない、現地語雑誌『社会福祉学』(タマサート大学社会福祉学部出版)のレビューを行なうことで、タイの社会福祉に関する研究の推移を把握することもできた。
 続いてチェンマイでは、チェンマイ大学附属図書館やマハーヂュラーロンコーン仏教大学附属図書館にて、特に北タイ地域にフォーカスを当てた資料の収集に努めた。たとえば、北タイ地域における「開発僧」の模範例としてしばしば言及されている二人の僧侶、プラ・ラーチャプッティヤーン師やプラ・テープガウィー師についての資料を収集した。ほかには、北タイ地域での僧侶の福祉活動に関する論考について、地方新聞や雑誌記事の検索をおこなった。
 また、バンコクに戻った後は、社会開発安全保障省社会開発福祉局を訪問し、同局が発行する年次報告書を過去三年分(2003年~2006年)入手した。

<D寺およびその周辺での聞き取り調査>
  チェンマイでは、チェンマイ市内での研究者との話し合いおよび図書館での資料収集のほかに、1週間ほどD寺周辺でフィールドワークをおこなった。その際、D寺での僧侶の福祉活動については、D寺が現在のように福祉活動で名を馳せるようになったきっかけや当時の背景、また僧侶自身の見解を明らかにするため、D寺で二世代にわたってこの分野をリードしてきた現住職と若手僧侶の二人にインタビューした。また、住民たちについて今回の調査では、親族や近隣者の説明にしばしば見られる、組織化されない「助け合い」(chuai kan)のかたち以外のものに着目し、葬式組合(chapanakit songkhro)のように明確なメンバーをもつ互助的な組織について聞き取りをおこなった。聞き取りを通して、D寺住職が設置した「庇護のもとの基金(kong thun rom bai bun)」など、僧侶による福祉活動の果たす役割について直接的、間接的に調査をおこなったが、結果的には地域住民の関心はかなり低いと言わざるをえないことがみえてきた。

 
5.本事業の実施によって得られた成果
 

 今回の派遣によって実現した、現地調査によって得られたもっとも大きな成果は、現在執筆中の博士論文に必要な資料を補足できたことである。
 申請者はこれまでずっと、現代タイ社会における仏教について、特に僧侶と寺院が福祉の分野でいかなる役割を果たしているのかに関心をもち、調査・研究に取り組んできた。これまで自分のおこなってきた調査・研究では、事例のD寺の福祉活動の現状および周辺地域の社会状況を明らかにすることを第一の目標としてきた。そのため、タイの僧侶の福祉活動に関する研究をはじめ、広く上座仏教社会における仏教、寺院、僧侶に関する先行研究のレビューをおこなうともに、D寺のあるD村での住み込み調査をおこなってきたのである。しかし、D寺での福祉活動を、過去から現在の歴史のなかに位置づけ、また一地域のレベルを超えて、タイ国家および国外ネットワークとのつながりをも考慮に入れて位置づけた理解をおこなうためには、現在D寺で福祉活動を中心的におこなっている若手僧侶からの聞き取りのみならず、その上の世代や村の老人たちからの聞き取りをおこなうほか、国家の福祉制度や政策を把握することが必要である。加えて、僧侶を支える大多数の在家者たる地域住民たちの対応をも視野に入れる必要がある。今回の派遣は、期間が一ヶ月と限定されているものの、文献資料収集およびフィールドワークの双方のアプローチから、これらの点を補足的に調査することを実現し、博士論文の内容を充実させるものであったと言える。
 タイにおける僧侶の福祉活動については、1960年代以降の「開発僧」を扱ったものが大半を占めているなかで、申請者は博士論文の執筆を通じて、社会学や開発論中心の「開発僧」研究に対する批判的な検討と、民族誌および人類学的な仏教研究の再考を試みている。しかし、今回の派遣で、特にタイにおける社会福祉政策の変遷やそれに関する研究に向き合えたことは、単にタイの社会福祉に関する制度や政策の資料が増えたというだけにとどまらず、タイ社会における「福祉」をめぐる諸概念について、今後、さらなる検討が必要であることを申請者に痛感させた。このことは、今後の課題を明確なものにすると同時に、申請者の研究の裾野を広げるという意味でとても有益であったと考えている。
 また、今回の派遣によって得られた成果は、博士論文に反映されるだけでなく、現在、『タイ研究』へ投稿を予定している論文にも反映されるものである。
 最後に、文献調査とフィールドワークの合間を縫うかたちで時間に限りがあったこと、また期間も一ヶ月と限りがあったことから、ごく少数の方がたとの交流しか実現できなかったのが残念であった。とは言え、現地の研究者やフィールドの人びととの交流は、申請者の研究に役立つ情報を入手する機会となったことに加え、互いの近況を確認しながら意見交換することによって、今後もよりよい信頼関係を築いていくことを期待させる、大きな収穫でもあった。また何より、彼らから博士論文の完成に向けて激励を頂戴したことは、申請者にとってこの上ない励みとなっている。  

6.本事業について
 

 人類学やその他隣接分野での博士論文完成にあたっては、1年や2年におよぶフィールドワークのみならず、短期間のフィールドワークも必要に応じて行う必要がある。その時期や内容も各人によってさまざまであるが、短期間のフィールドワークと言えども、国内・海外を問わず現地調査を実施する学生にとって、調査費用のうちで最も基本的な支出である交通費と宿泊費でさえも大きな負担となっている。
 その点、学生の自主的な研究活動を支援する本事業が、総研大学生たちの博士論文完成に果たす貢献は計り知れないものであり、私自身も大変ありがたく思っている。また、本事業は募集期間も1年に3回も設定されている点で学生のニーズに柔軟に対応していることも高く評価されるものである。
 しかし、事業実施の上での具体的な支援内容や支援の範囲についての説明は、より改善されることが望ましい。たとえば、交通費、宿泊費以外のすべての経費が「文献史料収集等に必要な経費」としてカウントされるという点については、事業実施前に申請者が十分理解するように努めるべきであったと反省することもできるが、誰がみても分かり易い説明に変更されるべきであるとも思う。よくある質問については、Q&Aの形でホームページに掲載するなどすれば、少なくとも、次回以降の応募学生たちがより円滑に事業を実施し報告できるようになるのではないだろうか。
  いずれにせよ、本事業のように学生の自主的かつ自由な研究支援は、他大学では見られないような先駆的なプログラムであり、今後も継続して行われることを願っている。