大塚奈美(比較文化学専攻)
1.事業実施の目的 【g.海外教育研究機関活用事業 h.海外フィールドワーク派遣事業】
   博士論文に関連する研究調査
2.実施場所
  ハンガリー共和国、ルーマニア
3.実施期日
  平成20年1月17日(木)~2月29日(金)
4.事業の概要
 

 今回の渡航の目的は、ハンガリーの民俗舞踊に関する博士論文に関連して、研究調査を行うことであった。
  目的地はハンガリー共和国のハンガリー科学アカデミー音楽学研究所民俗舞踊部門(Magyar Tudomanyos Akademia, Zenetudomanyi Intezet, Neptanc Osztaly)、セゲド大学民族学・文化人類学専攻(Szegedi Tudomanyegyetem, Neprajz es Kulturalis Antropologiai Tanszek)及びルーマニア、トランシルヴァニアのカロタセグ地方(Kalotaszeg)である。
  ブダペストのハンガリー科学アカデミー音楽学研究所民俗舞踊部門は首都ブダペストにあり、ハンガリーの民俗舞踊研究、民俗舞踊映像収集の中心的機関である。音楽学研究所の母体であるハンガリー科学アカデミーでは1930年代からバルトーク(BARTOK Bela)やコダーイ(KODALY Zoltan)らが中心となって広く学術的な活動を始めていたが、民俗音楽研究者グループとして正式に発足したのは1953年のことである。1974年に、当時の音楽学研究所(旧バルトーク資料室)と民俗音楽研究者グループが統合されて音楽学研究所とされ、ブダ城内の現在の場所に独立することとなった。同研究所の主な活動は、民俗音楽研究、民俗舞踊研究、バルトーク研究、ハンガリー音楽史研究、礼拝歌研究である。民俗舞踊研究は、1965年からマルティン(MARTIN Gyorgy)を中心に行われ、74年にマルティンを長とした民俗舞踊部門として独立し、ハンガリーの民俗舞踊映像収集の中心的な機関として位置づけられた。同部門の活動の当初の中核は、即興的な舞踊形成に関する考察、トランシルヴァニアの舞踊伝統の解明、民俗舞踊アーカイヴの拡充であった。近年では、コンピュータなどの新しい技術や機器を用いての研究が進められている。
 同研究所の民俗舞踊資料室には膨大な動画資料、写真資料、文書資料、舞踊音楽資料、舞踊譜資料が集められており、年間延べ500人程度の利用がある。利用者は主に研究者(学生含む)であるが、テレビ番組や映画制作のために用いられることもある。今回は、主に動画資料に関する調査を行った。研究所の所蔵する動画資料のうち、カロタセグ地方、特にボガールテルケ村(Bogartelke―ルーマニア名)に関するものを抽出し、うち数本を閲覧し、意見交換を行った。
 セゲド大学は、ハンガリー南部の都市セゲドにある。同大学のルーツは1581 年、コロジュヴァール(Kolozsvar―現在のルーマニアのクルージュ・ナポカCluj-Napoca)の神学校まで遡ることができる。第一次大戦後に移転の必要に迫られ、1921年にセゲドが移転地として選定され、現在の名称となったのは2000年である。民族学専攻は1929年から稼動しており、ハンガリーの民族学専攻の中で最も古いとされる。2003年より民族学・文化人類学専攻と改められ、昨年度からは報告者の研究とも関連の深い舞踊人類学コースも新設された。現在、研究室移転の最中であったが、大学の見学、意見交換を行った他、必要な文献も入手することができた。
 トランシルヴァニアはカールパート盆地の南東に広がる地域で、その歴史については諸説あるが、10世紀ごろにはハンガリー人が住んでいたといわれ、第一次世界大戦後のトリアノン条約でルーマニア領とされた。カロタセグはトランシルヴァニアの中心的都市クルージュ・ナポカの西に広がる地域で、フェルセグ(Felszeg)、アルセグ(Alszeg)、ナーダシュメンテ(Nadasmente)の三つの区域に大きく分けられる。トランシルヴァニアの中でも早くからハンガリー人が定住していたといわれ、現在でも特にハンガリー人が多く住む地域である。古い民俗文化が残る数少ない場所でもあり、独自の家具、木彫、刺繍、織物、民俗舞踊、民族衣装等で知られる。ボガールテルケは、カロタセグの中でも特に「装飾的な地方(cifravidek)」と呼ばれるナーダシュメンテに属する人口約400の村で、住民の大多数はハンガリー系である。このボガールテルケを拠点に、スターナ村(Sztana―ルーマニア名Stana)やテュレ村(Ture―ルーマニア名Turea)の謝肉祭舞踏会において民俗音楽・舞踊の実践の様子を撮影したほか、クルージュ・ナポカ市において文献を収集し、バガラ村では踊りとそれに関わる生活について聞き取りを行った。

5.本事業の実施によって得られた成果
 

 音楽学研究所民俗舞踊部門の民俗舞踊資料室には膨大な資料があり、これまで十分な調査ができなかったが、本事業により、短期ではあるが改めて動画資料と向き合うことができた。
 動画資料は約1600件ほどある。現時点では、動画資料目録はカード式となっており、村の名前などで検索することができる。カード目録にはフィルム番号、音源番号、記録ノート番号や録画の内容、収集年月日、収集者名などが記載されている。これらをもとにフィルムやノートを請求し、閲覧することができる。ボガールテルケに分類されている資料は11件確認できた。ボガールテルケでは、ハンガリーの「民俗芸術名人()」の称号を受けた踊り手フェケテ・ヤーノシュ(FEKETE Janos、通称ポンチャPoncsa)が有名で、彼の映像が多いが、あまり知られていない踊り手の映像があることも判明した。この踊り手に関しても、今後聞き取りなどで調査をしていきたい。
 セゲド大学の舞踊人類学コースはまだ新しく、総合大学での常設コースとして画期的である。民族学・人類学一般と民俗舞踊に関する基礎科目を学んだ後、実習なども行う。報告者は今回初めて同大学を訪問した。訪問時は移転の最中であったが、文献を収集することができた。今回の訪問をきっかけに今後も協力関係を築いていきたい機関である。
 その他、ブダペストでは、都市での民俗舞踊実践の場であるターンツハーズ2件に参加した。「ターンツハーズ」とは踊りの家という意味で、本来は農村で踊りのために家を借り切って行う娯楽の場を指す言葉であった。ブダペストでは、農村に倣って、1972年に初めて舞踊団によって開催された。現在は一般に開放されており、ブダペストではほぼ毎日のようにどこかで何らかのターンツハーズが行われている。ハンガリー以外の踊りのターンツハーズもある。これら一連の動きは「ターンツハーズ運動」と呼ばれる。今回参加したのは、1件はターンツハーズ運動第二世代の楽団による比較的新しいターンツハーズで、若者に人気のあるターンツハーズである。毎週金曜に大学内の建物地下室で行われているが、いつも若者で賑わっている。ここでは様々な地域の踊りが行われるが、カロタセグの踊りの一連が演奏されることは多く、今回も演奏された。ハンガリーの踊りは自由な部分が多く、曲と振り付けがきっちり決まっているわけではない。それぞれが、踊りたいときに立ち上がって演奏家の前で踊るのであるが、若者が多いこともあり、男性が1人ずつ踊る男性舞踊のレゲーニェシュでは踊りの順番待ちをする人が絶えない。男女の組の踊りでも、後で踊ろうと思ってのんびりしていると踊る場所がなくなってしまうほどである。もう1件はターンツハーズ運動発祥のときから関わっている演奏家の属する楽団のターンツハーズで、1970年代から現在まで通い続けている人もいる。毎週土曜に開催されているが、2003年に、これまで慣れ親しんだ会場から移転し、若干雰囲気が変わった。ここではだいたいのプログラムが決まっている。毎回3~4地方の踊りが取り上げられ、初めはセーク村の踊り、最後はメゼーシェーグ地方の踊りである。間に2~3地方入るのであるが、カロタセグが入ることもある。第一部終了後に部屋を変えて続けられ、そこではカロタセグを演奏することも多い。今回もカロタセグの踊りは演奏された。カロタセグの踊りは、ブダペストでも人気がある踊りであるといえる。
 カロタセグ地方・スターナ村はボガールテルケとバーンフィフニャド市(Banffyhunyad―ルーマニア名Huedin)の間に位置する。スターナでは2001年からハンガリー・ブダペストのケルテース舞踊団の協力で謝肉祭舞踏会が開催されている。今年は2月1日に行われた。ブダペストから貸切バスで舞踊団の団員や関係者が訪れ、カロタセグ内の他の村やハンガリーから訪れる人もある。コロジュヴァールの舞踊団による出し物に続いて舞踏会が行われた。参加者は子どもから年配者まで幅広い年齢層であるが、ブダペストからの若い参加者がかなりの割合を占める。当日はコロジュヴァールからハンガリー語の書物なども出店していた。
 ボガールテルケから近いテュレ村では2月16日に謝肉祭舞踏会が開催された。カロタセグでは改革派の信者が多く、四旬節期間中も断食などは特に行わず、踊りも禁忌ではないというが、今年は謝肉祭期間の終わりが早く、当日はすでに謝肉祭終了後。異例のことであったと思われる。今年は、子どもたちの出し物のほか、ハンガリー学校、ルーマニア学校、ハンガリー幼稚園、ルーマニア幼稚園などの協賛によるくじ引きが催された。その後、舞踏会となった。舞踏会では、地元の楽団による生演奏での民俗舞踊のほか、コンピュータによるディスコ音楽もあり、若い世代は主にディスコダンスを好む様子が確認できた。スピーカーの大音量で会話もままならないのは、近年のこの地方の結婚式などでの流行と同様である。謝肉祭にはドーナツを用意する習慣があるが、この舞踏会でも女性たちがドーナツを入れた容器を持って参加者たちのところを回り、振舞っていた。これは2005年の同村の謝肉祭舞踏会でも行われており、現在のところ、受け継がれているといえそうである。このような伝統的な娯楽の場は少なくなっており、謝肉祭舞踏会の場合も、謝肉祭ということだけではなく、地域の娯楽の場の提供という意味が大きいのではないかと思う。当日は雪が積もり-10度以下であったと思われるが、報告者のほかにもボガールテルケから列車に乗って、さらに駅がある隣町から歩いて会場まで足を運んだ人が数人いた。
 ボガールテルケでは、主に前述のポンチャについて聞き取りを行った。ポンチャ本人は既に亡くなっており、今回は主に子息夫妻からの聞き取りを行った。ポンチャに関して、男性舞踊に関して一番の踊り手であったということではほとんどの村人の意見が一致する。今回は踊りに関するポンチャとの思い出や若いころの踊りの機会や娯楽について、踊りの種類、他村との関わりなどについて話を聞いた。また、村の年配者数人に同様のテーマで話を聞いた。
 今回の渡航により、海外の研究機関との協力体制を強化・発展させることができ、また、停滞しがちであった現地調査に関しても一歩前進するきっかけができた。今回の調査だけでは不完全であるが、本事業の成果は博士論文執筆のために不可欠のものであった。  

6.本事業について
 

 本事業に参加することができ、渡航費の面で大きな助けとなったことはありがたく感じている。また、意識の上でも調査を行う推進力となったと感じている。ただ、ヨーロッパの中小都市を渡航先とした場合に、現在の予算枠では航空運賃の他に予算があまり残らず、宿泊費や現地移動費をかなり切り詰めなければならなかった。時期によっては航空運賃だけで予算枠を超える恐れもある。結果として、今回はブダペスト滞在日数をかなり短くせざるを得なかった。日数制限に関しても、ある程度柔軟に対応していただけたものの、設定されている日数制限はやや短く感じられた。今後、渡航先に応じた比例配分や支給対象経費の費目など、より柔軟な予算執行ができればゆとりを持った研究活動ができるのではないかと思う。