王暁瑞(日本文学研究専攻)
1.事業実施の目的 【c.国内フィールドワーク派遣事業】
  

博士論文テーマに関わる研究調査

2.実施場所
  福井県福井市
3.実施期日
 

平成19年6月12日(火)~6月15日(金)

4.事業の概要
   6月12日から6月15日まで四日間かけて、文化科学研究科国内フィールドワーク派遣を利用させていただいて、福井県福井市への研究調査を行った。
 今回は、私の博士論文テーマに関わる、近世後期の越前国福井(現福井県)出身の歌人である橘曙覧について、研究調査を行った。
 行程初日(6月12日)は、①継体天皇御世系碑、②橘曙覧歌碑および③橘曙覧三女健子之墓を訪れた。
 ①福井市足羽神社境内に現存する継体天皇御世系碑は、橘曙覧が田中大秀に入門時、越前から出て帝位についた継体天皇の世系を広く世に知らせるために石碑に刻んで建てることを大秀に依頼され、福井の同門と協力して弘化三年(1846)建立したものである。②福井市足羽山愛宕坂にある橘曙覧歌碑「正月ついたちの日古事記をとりて 春にあけて先づ看る書も天地の始めの時と読みいづるかな 曙覧」は、昭和四十三年橘曙覧没後百年祭記念祭の際に、福井県短歌人連盟により建立された。同歌は橘曙覧の歌集『志濃夫廼舎歌集』の第三集「春明艸」に収めており、歌碑碑文は現存する橘曙覧自筆筆跡をそのままに彫ったものであるといわれている(福井県短歌人連盟より)。③橘曙覧三女健子之墓は、福井市足羽山麓の日蓮宗妙観寺の境内にある。健子は橘曙覧の第三女で、弘化元年二月、わずか四歳にして痘瘡(天然痘)で夭折した。墓碑に橘曙覧自筆の墓銘が刻されている。
 翌日(6月13日)は、④橘曙覧生家の跡、⑤福井市橘曙覧記念文学館兼黄金舎跡を訪れた。
 ④橘曙覧生家の跡は現在の福井市つくも町一丁目にあり、橘曙覧は文化九年(1812)ここで生まれた。⑤黄金舎跡は福井市足羽一丁目(足羽山の山腹)にある。橘曙覧は天保十年(1839)から嘉永元年(1848)にかけてここに隠棲した。そして平成12年4月に福井市橘曙覧記念文学館が開館した。この福井市橘曙覧記念文学館には、貴重な橘曙覧の遺墨資料として、橘曙覧自筆の書幅や和歌短冊および書簡、和歌幅など11点が展示・所蔵されている。ほかに、越智通兄筆橘曙覧肖像画及び富岡鉄斎画頼氏山紫水明処図など橘曙覧の関連資料もある。また二階の閲覧室に橘曙覧関連の郷土資料及び研究論文が多数ある。
 三日目(6月14日)は、⑥福井市立郷土歴史博物館、⑦藁屋(志濃夫廼舎)跡、⑧袖干の井跡を訪ねて、再び福井市橘曙覧記念文学館を訪問し、橘曙覧関連の郷土資料を閲覧した。
 ⑥福井市立郷土歴史博物館には、橘曙覧の遺墨資料として、橘曙覧自筆の和歌短冊「花めきてしばし見ゆるもすゞな園たぶせの庵にさけばなりけり 曙覧」および和歌扇「かけがねをかくればはづしはずしゝて夜たゞ寝させぬ柴戸の風 曙覧」が所蔵されている。⑦藁屋(志濃夫廼舎〔しのぶのや〕)跡は福井市照手2丁目にあり、橘曙覧が嘉永元年(1848)から慶応四年(1868)八月二十八日病没するまでここで暮した。なお、志濃夫廼舎という屋号は、越前福井藩主松平慶永(1828-1890)が慶応元年(1865)二月二十六日藁屋の橘曙覧を訪問して、命名したものである。⑧袖干の井跡は藁屋跡の西側にある。それは橘曙覧が住居の西側に掘った井戸で、「袖干の井」(そでひのい)と名付けられた。
 最終日(6月15日)は⑨橘曙覧の墓、大安禅寺を訪れた。 ⑨橘曙覧の墓は福井県福井市田ノ谷町大安禅寺にある。慶応四年(1868)八月二十八日、橘曙覧が病没し、長男の井手今滋によりここに葬られた。墓碑に「橘曙覧之奥墓」という文字が刻まれている。この文字は橘曙覧長男の井手今滋によるものである。
5.本事業の実施によって得られた成果
   今回福井への研究調査の主要的な目的は、福井市橘曙覧記念文学館に所蔵されている、橘曙覧の真筆資料を収集することであった。
 今回の研究調査により、この文学館に、橘曙覧の真筆資料として具体的には以下のような11点の資料が所蔵されていることがわかった。
 一、橘曙覧書幅「土牀爐足袖衾煖瓦釜泉甘豆粥新萬事不求温飽外漫然清世一閑人」
 二、橘曙覧和歌幅「心なき身にもあはれと泣すがる児には涙のかゝらざりきや 西行法師 曙覧」(橘 曙覧拾遺歌〈1252〉 歌の番号は水島直文・橋本政宣編注/1999・7・16第1刷発行/岩波文庫本『橘 曙覧全歌集』により、以下は同じ)
 三、橘曙覧和歌幅/半切「をりをりの夜かれいかにとあやぶみし早あらはしてつれなかる也 絶久恋 曙覧」(橘曙覧拾遺歌〈1137〉)
 四、橘曙覧書簡/一巻/卷子本、表装、三月十日付/岡崎左喜助宛橘曙覧差出
 五、橘曙覧和歌幅+短冊「あだならぬ花のもとにはたえずきて年に稀なる人といはれじ 曙覧」(『志濃 夫廼舎歌集』第一集「松籟草」〈18〉)
 六、橘曙覧和歌幅+短冊「鷹狩 手はなべて尾ふさの鈴の音遠しいづこに鷹の鳥ねらふらむ 尚事」( 橘曙覧拾遺歌〈1261〉)
 七、橘曙覧和歌短冊「汐ならで朝なゆふなに汲む水も辛き世なりと濡らす袖かな 尚事」(『志濃夫廼 舎歌集』第一集「松籟草」〈6〉)
 八、橘曙覧和歌短冊「聞鹿 涙だに見せぬ牡鹿の音につれて袖しぼらるる我やなになり 曙覧」(橘曙 覧拾遺歌〈975〉)
 九、画幅/早瀬来山画 女郎花図・橘曙覧讚「花ゆゑは名はたちぬともをみなへし手ふれでたたばい かが過ぐべき 曙覧」(橘曙覧拾遺歌〈1147〉)
 十、橘曙覧筆和歌屏風/六曲一雙
 十一、橘曙覧和歌幅「夜氷 月かげをこほりの上にはしらせて沈みにしづむ夜はの川音 曙覧」(『志濃 夫廼舎歌集』第四集「君来草」〈682〉)
 以上の資料の中で、六、八と十一の資料は展示や収蔵者の個人的な都合(福井市橘曙覧記念文学館の学芸員により教えられた)のため、詳細な情報を得ることができなかった。
 ほか8点の資料については、今後その内容の分析をさらに深め、書誌学的な研究成果を、8月に開催の平成19年度(第22回)鳴門教育大学国語教育学会において発表する予定である。
 中でも、資料四の書簡は、その内容から橘曙覧が出張する門人の岡崎左喜助に、筆の購入を依頼したことが読み取れる。「唐筆(手書きの絵)此くらゐの太さなるを御ぎんみ一、二本御もとめの程くれぐれも御たのみ申候 価はいくら高くてもはりこみ可申候」とあり、橘曙覧が筆にこだわることがわかる資料の一つである。
 資料二、三の和歌幅は橘曙覧の草仮名の書き方を研究する上で貴重な資料で、資料一の書幅は橘曙覧の書法及び書体を研究するために重要な資料である。
 この3点の資料を8月の研究発表の重点に置きたいと思う。なお、研究発表においては、参考資料として、越智通兄筆橘曙覧肖像画及び富岡鉄斎画頼氏山紫水明処図2点の橘曙覧の関連資料も紹介する予定である。
6.本事業について
   今回、文化科学研究科国内学生派遣関連事業に参加させていただき、修士課程以来ずっと抱き続けた、橘曙覧の生家に研究調査に行くという願望をかなえた。今回の研究調査により得られた資料は橘曙覧の研究に非常に重要なもので、これを博士論文執筆において充分に利用しようと思っております。