王暁瑞(日本文学研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【d.国内学会等研究成果発表事業】
  課題に関わる研究発表
2.実施場所
  鳴門教育大学(徳島県鳴門市鳴門町高島字中島748)
3.実施期日
  平成19年8月9日(金)~8月11日(日)
4.事業の概要
 

 8月9日と8月10日の二日間、文化科学研究科国内フィールドワーク派遣を利用させていただき、鳴門教育大学にて平成19年度(第22回)鳴門教育大学国語教育学会に参加し、研究発表を行った。
 鳴門教育大学国語教育学会は、昭和61年(1986)に設立された。毎年8月に、国立大学法人鳴門教育大学言語系(国語)教育講座により開催し、国語科教育・国語学・国文学・漢文学・日本語教育・書写書道などの各分野において研究活動を行われ,教員,修了生,在学生の交流を行っている。機関誌は『語文と教育』という。
 今回の学会は8月10日(金)に開催された。研究発表は午前の部と午後の部という二つのセッションに分かれた。午前の部は国文学・国語学のセッション、午後の部は国語科教育のセッションになっていた。発表時間は、一人あたり20分、プラス質疑10分、合わせて30分となっていた。そして、最後は、特別研究発表であった。なお、昼食休憩の間、当学会の総会が行われた。
 国文学のセッションでは、以下のような内容の研究発表があった。
 ①藤原俊成の「本説取り」について
 ②橘曙覧記念文学館蔵の橘曙覧遺墨について
 ③芥川龍之介「河童」試論
 国語学のセッションでは、次のような内容の研究発表があった。
 ④平家物語における「漢語字音語基」の意味・用法と助詞についての一考察―「延慶本平家物語」と「  高野本平家物語」を中心に―
 国語科教育のセッションでは、以下のような内容の研究発表があった。
 ⑤小学校学習指導要領の推移から見えてくるもの
 ⑥峰地光重の綴方指導研究
 ⑦大村はま国語教室における「てびき」の効果―単元「本が呼びかけてくる」より―
 ⑧文学的認識を育む国語教育の研究~詩創作、キーワード探しからリライトまで~
 特別研究発表は、鳴門教育大学言語系国語教育講座教授、松原一義氏により、次のようなものであった。
 「古典をどのテキストで読むか」
 なお、私の研究発表のタイトルは「橘曙覧記念文学館蔵の橘曙覧遺墨について」であり、国文学のセッションに属していた。
  国文学のセッションは、発表内容が中世から近代にまでわたり、さらに質疑応答では国文学の分野だけではなく、国語科教育・国語学、日本語教育などの専門家からもいろいろな質問や意見がよせられ、雰囲気が盛り上がっていた。研究分野が違うため、研究に対する考え方やアプローチの仕方もさまざまであり、ヒントを与えられるような刺激的で貴重な意見をもらって、非常に有意義であったと思う。

5.学会発表について

 今回の学会において、私は福井県にある福井市橘曙覧記念文学館(以下は橘曙覧記念文学館と称する)所蔵の、橘曙覧の遺墨資料について発表した。研究発表のタイトルは「橘曙覧記念文学館蔵の橘曙覧遺墨について」であった。
 橘曙覧は、江戸時代後期の国学者、歌人である。文化九年(1812)五月生まれ、慶応四年(1868)八月二十八日没。五十七歳。越前国福井(福井県)人。本居宣長の国学思想を信奉し、和歌は万葉体を倣って、個性的な歌風を持っていた。作品は『志濃夫廼舎歌集』『藁屋詠草』『藁屋文集』『榊の薫』などがある。
 今回の発表は、6月に橘曙覧記念文学館蔵にて研究調査により得られた、橘曙覧記念文学館所蔵の橘曙覧真筆の詩幅、短冊、和歌幅、書簡、画賛など十点の資料の書誌情報を紹介し、そして、その中の和歌幅二点(橘曙覧筆和歌幅「心なき云々」と「をりをりの云々」)と書簡(橘曙覧筆、岡崎左喜助宛)一点を合わせて、三点の橘曙覧の遺墨資料に限定し、考察して得られたものを発表した。
 具体的には以下のような観点からのアプローチによるものである。
 1、歌人の橘曙覧は書道においても優れ、四十三歳以後は王羲之風、亀田鵬斎流 など書体を会得し、その晩年は自由闊達な書風をもっており、「近世草書の三絶」と評する人もいる。
 2、橘曙覧は潤筆料で生活した側面があった。
 3、橘曙覧は筆にこだわりを持っていたと思われる。
 先行文献では、橘曙覧の書道について、a「二十歳頃 頼山陽流の書風」b「二十八歳頃 妙泰寺の明導の書に似た遒勁な書風」c「三十二、三歳頃 本居宣長の筆法に似せた肉細い柔らかさ」d「四十四、五歳頃 生涯中最も美麗な書形(王右軍系の安木石華流の影響か)」e「四十七歳頃 顔真卿派」f「五十歳頃 亀田鵬斎流・唐僧懐素流」というような六点にまとめていた論説がある。本発表では、『橘曙覧遺墨集』に収められている橘曙覧の各時期の筆跡を頼山陽 、本居宣長など名家の筆跡と比較し、その論説を確認して引用し、そして、「心なき云々」と「をりをりの云々」という二点の橘曙覧筆和歌幅についての考察を含めることで、まず第一番目の観点を得られた。
 そして、その第一番目の観点をふまえながら、『橘曙覧書簡集』(永井環・島崎圭一編 岩波書店1937・8発行)、新修 橘曙覧全集』(井手今滋編・辻森秀英増補 桜楓社1983・5発行)に収められている潤筆料に関する橘曙覧の書簡内容について考察することにより、第二番目の観点の論証を試みた。
岡崎左喜助(橘曙覧の門人)宛の橘曙覧書簡の内容について分析する中で、橘曙覧が岡崎左喜助に唐筆の購入を頼んだことがあったのがわかった。それにより、また、『橘曙覧書簡集』などに収められている文房具に関する橘曙覧の書簡の考察も含めて、第三番目の観点を得られた。
  以上のような発表内容に対して、「橘曙覧は自分なりの書風を持っていたか?もしあれば、どうのような風格の書風であったか?」というような質問があった。また、橘曙覧の和歌幅「をりをりの云々」の翻刻について、意味があまり通じていないという意見もあった。

6.本事業の実施によって得られた成果
 

 今回の発表は、橘曙覧記念文学館所蔵の橘曙覧の遺墨資料、主に下記の和歌幅二点と書簡一点合わせて三点に限定して考察した。
 一、橘曙覧和歌幅「心なき身にもあはれと泣すがる児には涙のかゝらざりきや 西行法師 曙覧」
 二、橘曙覧和歌幅/半切「をりをりの夜かれいかにとあやぶみし早あらはしてつれなかる也 絶久恋 曙覧」
 三、橘曙覧書簡/一巻/卷子本、表装、三月十日付/岡崎左喜助宛橘曙覧差出
 それによって、主に以下のような三点のことが得られた。
 1、歌人の橘曙覧は書道においても優れ、四十三歳以後は王羲之風、亀田鵬斎流など書体を会得し、その晩年は自由闊達な書風をもっており、「近世草書の三絶」と評する人もいる。
 2、橘曙覧は潤筆料で生活した側面があった。
 3、橘曙覧は筆にこだわりを持っていたと思われる。
 発表者の研究課題は「橘曙覧和歌の研究-中国古典の影響を通して-」であって、橘曙覧の和歌文学について、「日本文学と中国文学」、「日本文学と地域文学」の二つの軸を交差させて文献学的研究を試みるものである。
 「日本文学と地域文学」について、彼は京都に数度訪れているものの、生涯を福井藩という地域のなかにおいて地域と密接する文学活動を行った人である。福井市橘曙覧記念文学館の橘曙覧の資料を精査し、基本的な情報の整理を行い、地域と橘曙覧の関係を明白にするのは、発表者の課題研究計画の一環である。
 今回の研究発表により明らかにした、橘曙覧が書道において、頼山陽・亀田鵬斎・安木石華など各名家の影響を受けていたことをきっかけとして、さらに範囲を広げて、より多くの橘曙覧遺墨資料および橘曙覧の関連資料を対象にして研究を深め、地域と橘曙覧の関係を明らかにすることを年度内に達成する目標にしたい。
 また、橘曙覧の和歌幅「をりをりの云々」の翻刻について、現在まで先行文献では、判読困難となっており、その翻刻文はいくつがあるが、すべて意味が通じない。今回の発表では、先行文献の翻刻を参考にしながら翻刻文を作ったが、やはり意味があまり通じていないと指摘された。今後は、この問題について研究を深め、橘曙覧の和歌幅「をりをりの云々」の正確な翻刻文を作り、その成果を次回の鳴門教育大学国語教育学会(第23回)において発表したいと考えている。
  今回、橘曙覧の真筆資料の調査、および研究発表によって得た成果は、単なる作品研究にとどまらない広い視野から、橘曙覧の文学、および生涯について考察することを目指す発表者にとっては非常に大きなものであった。

7.本事業について
   今回、文化科学研究科国内学生派遣関連事業に参加させていただき、平成19年度(第22回)鳴門教育大学国語教育学会において、橘曙覧についての研究結果を発表した。学会発表に際して、貴重な質疑や意見を賜った。また、国文学の分野に限らず、国語学の分野、国語科教育の分野および日本語教育の分野などの院生・教員と交流することができ、研究方法についての視野が広がった。これは今後の課題研究に大いに役立つと思っている。

 
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