佐藤まり子(地域文化学専攻)
首都ハノイ聖室
大道教理布教協会
独立記念日パレードに参加するハノイ聖室の信者たち
1.事業実施の目的 【h.海外フィールドワーク派遣事業】
   博士論文執筆のための補足調査と資料収集
2.実施場所
  ベトナム ハノイ市、ホーチミン市
3.実施期日
  平成19年10月1日(月)~10月30日(火)
4.事業の概要
 

 本事業は、ベトナム社会主義共和国(以下ベトナム)における宗教組織カオダイ教に関する文化人類学的研究の一環であり、実施者が2004年3月から2005年10月まで行った長期フィールド調査を補填するためのものであった。
 期間は、2007年10月1日から10月30日までの約1ヶ月間で、ベトナムの首都ハノイ市において3週間(10月1日から21日まで)調査を実施した後、南部地域の中心地ホーチミン市に移動し、当地でも9日間(10月21日から30日まで)調査を行った。また期間中は、ハノイ市社会科学院および関係機関での資料収集も同時並行的に行った。
 実施者はこれまで、1920年代にベトナム南部タイニン省で創設された固有の宗教カオダイ教
(DaoCaoDai)に着目し、現代ベトナム社会における同教の活動実態の把握に努めてきた。フランス植民地期からベトナム戦争期を経て、ベトナム南部社会において強力な社会的影響力を保持してきたカオダイ教は、現在9つ以上の宗派に別れ多様な活動状況にある。従来の研究では、そのほとんどがベトナム戦争以前から戦中のカオダイ教に関する言及にとどまり、戦後から現代における活動に関する調査報告は極めて少ない現状にある。また現政権下での外国人による宗教調査が困難な状況にあるため、実施者のこうした取り組みは、研究の空白を埋める貴重な資料提供といえる。
 実施者が特に焦点を当てるのは、カオダイ教系の一宗派バン・チン・ダオ派(phai Ban chinh dao)の下部組織である首都ハノイ聖室(Thanh that thu do Ha Noi以下ハノイ聖室)の活動である。ハノイ聖室は、カオダイ教系組織全体の中においては、一宗派の下部組織の一つに過ぎない。しかし現在ハノイ市にある唯一のカオダイ教系組織であり、北部地域におけるバン・チン・ダオ派の中央組織体にもなっている。これまで実施者が行ってきたハノイ聖室に関する調査では、信者の高齢化や、代表者と一般信者間の信仰意識のズレなどが要因となり、活動の小規模化傾向にある点や、所属母体であるバン・チン・ダオ聖会との関係性において極めて特異な位置にある点、そしてそのためカオダイ教系組織の中でも「周辺」に位置づけられる点などが明らかとなっている。一方で、そうした特異性や、ハノイ市という地理的条件ゆえに、超宗派的存在である点や、政府関係機関とのつながりが密接である点も特徴として指摘できる。こうした背景から、現代ベトナム社会の都市空間における宗教の機能について、また宗教と社会主義政権をめぐっての考察に際して、ハノイ聖室は重要な位置づけにあると考えられる。
 本事業ではそうしたハノイ聖室の位置づけを相対化する上で、ハノイ聖室所属の信者30名と、ホーチミン市にあるカオダイ教系組織、大道教理布教協会(Co Quan Pho Thong Giao Ly Dai Dao)所属の信者33名を対象に、属性と信仰意識に関するインタビュー調査を実施した。ハノイ聖室所属の信者に対しては、上述の特性や、信者の聖室参集が月2回と限られる現状にある点、そして信者がハノイ市全体に散在している点を考慮して、信者個人宅を一戸ずつ訪問し、インタビュー調査を実施した。具体的には一日につき平均2人程度、バイクタクシーと公共バスを利用し信者宅を訪れた。そして信者に対し、インタビューへの返答をICレコーダーに記録し、資料として活用することを伝えた上で、口答での調査を実施した。またハノイ聖室代表者に対するインタビューは、同聖室内で行った。
ホーチミン市の大道教理布教協会に関しては、ハノイ市で行ったインタビューとほぼ同等の内容の質問表を作成し、各信者に配布し、記入してもらった後回収する形式をとった。同協会は、協会敷地内で生活する出家信者が10数名いると同時に、その他多くの在家の信者も同敷地内での精進料理店の経営や、医療活動に取り組んでいる。そのため多くの信者が恒常的に協会に出入りする。質問表は、そうした信者に対し、協会副書記長から無作為に配布してもらい、会計担当の信者によって回収してもらった。
 他方、バン・チン・ダオ派のホーチミン市中央聖室となっているドウ・タイン聖室(Thanh That Do Thanh)も訪問し、活動状況に関するインタビューを代表者に行った。
  以上、本事業で実施した調査で得られたデータを補足的に活用し、博士論文の執筆に取り組んでいく予定である。

 
5.本事業の実施によって得られた成果
 

 本事業を通して得られた成果は以下の内容である。
 第一に、ハノイ聖室所属の信者たちの信仰意識の把握。これまでの調査で収集してきた信者の社会的属性に関する情報に加え、本事業では各信者の信仰意識に関するインタビュー調査も行った。社会主義を維持するベトナムでは、憲法において全人民の信仰・宗教の自由が認められてはいるものの、現政権に対し反抗分子となるような活動は取締りの対象となる。カオダイ教もかつて活動自体が厳しく制限されていた歴史をもつ。そのため上述のように、外国人による調査研究は難しいと同時に、信者個人に対するこうした信仰意識の調査は、より一層慎重な態度が必要とされる。本事業で取り組んだ調査は、実施者が長年かけて構築してきた信者たちとの関係性を基盤とすることで、ようやく実現が可能となった成果であり、従来のカオダイ教研究では報告されてこなかった、意識レベルでの信者たちの信仰のあり方の一端を明らかにすることができると考えられる。なお、質問項目は以下の通りであり、30名の信者から回答をえることができた。
 a.氏名、b.生年月日(年齢)、出生地、c.学歴、d.生業、e.入門年、f.入門理由、g.紹介者とその職位、h.入門の際の家族の態度、i.一ヶ月に聖室に行く頻度、j.南部への訪問経験の有無、k.「開道記念儀礼(Le Ky Niem Khai Dao)」への出席経験の有無、l.「教祖聖誕祭儀礼(Le Sinh Nhat Duc Giao Tong)」への出席経験の有無、m.不安や悩みがある際に誰に対し礼拝するか、n.祖先祭祀は重要かどうか、o.何に対する祭礼が最も重要か、祖先、「天神(ong troi)」、「父、師(thay)」、p.「天神」とは誰か、q.「父、師」とは誰か、r.祖先祭祀をしないと問題があるかどうか、s.祖先の祭壇があるかどうか、t.カオダイ教の祭壇があるかどうか、u.「供果(cong duc)」(功徳の意)をする目的は何か、v.読経や神への祭礼の目的は何か、w.人間には魂があるかどうか、x.人間の魂は死後どこにいくか、y.人間は死後転生するかどうか。
 実施者はこれまでの調査を通じて、ハノイ聖室所属の信者たちの社会的属性を以下のように整理してきた。①信者の大半が北部地域出身者である点、②出生地は現在のハノイ市近郊地域であり、戦時中の混乱を経て何らかの理由でハノイに転居してきた者が多い点、③60歳代以上の高齢の女性が多い点、④独身や、婚家からの離縁経験者、また寡婦などが多い点、⑤信仰の継承が、母方祖母から孫娘へ、母から娘へ、姑から嫁への継承傾向が強い点。こうした特性に加え、本事業で行った信仰意識調査によって得られたデータを分析することによって、信者たちがカオダイ教を選択する上での宗教的意義が明らかになると考えられる。さらにそうすることで、ベトナム北部社会における宗教の機能の再考が可能となる。
 第二に、ホーチミン市の大道教理布教教会所属の信者の属性と信仰意識の把握。カオダイ教の活動の中心は南部地域であるにもかかわらず、これまでは上記の理由から南部における調査は短期間しかできなかった。今回も、調査期間は限られてはいたものの、これまで構築してきたネットワークを介して質問表調査の実施が可能となり、信者個人に関する資料をえることができた。質問項目は、ハノイ聖室所属の信者に行ったインタビューとほぼ同じ内容だが、対象が60歳代以上に大幅に偏るハノイ聖室とは異なり、大道教理布教教会の信者は経済活動に従事する若年・中年層の割合が多いため、学歴と現在の生業も項目に加えた。これによって、信者の社会的属性および信仰意識に関する南北両地域の比較が可能となり、現代ベトナム社会におけるカオダイ教の実態を、信者個人の宗教実践レベルから捉えることが期待できる。
 現在実施者は、上記で示した資料の整理、分析に取り組んでいる。分析終了後は、博士論文の一部として資料の提示をしていくと同時に、文化人類学会をはじめとする国内外の学会で発表し、現代ベトナムにおける宗教事情に関する多数の研究報告をしていく予定である。

6.本事業について
 

 本事業による研究支援は、海外でのフィールドワークが必要とされる文化人類学および民族学を専攻とする学生等にとって、対象地域での調査機会を増やすうえで極めて有効な機能を果たしているといえる。また人文社会系の研究領域に対する助成金が減少している昨今の現状を鑑みても、文化科学研究科所属の学生に対し平等に与えられた支援でもあり、今後も学生等がより高位の知的生産活動を持続していくためには、本事業の継続を強く希望する。同時に、実施者も本事業の採択により、充実した研究調査活動の機会が得られたことに、深く感謝しているしだいである。
  その上で、事業の実施がより効果的に研究成果に結びつくためにも、次の点を再考していく必要があると思われる。まず一つ目に、支援金の使途目的の改善がある。現時点では、支援の対象が交通費および宿泊費と限られている。文献資料収集に関しても支援対象に含まれるが、所有の権限が専攻所属の併設機関(実施者の場合は国立民族学博物館)となる条件付であるため、個人所有は認められていない。文献資料は、研究上恒常的に使用するものであり、かつ必須であると同時に、貴重な資料にいたっては、高額な場合もある。収入の限られた学生の研究生活を向上させるうえでも、文献資料の個人所有が認められるかたちでの支援をしていただくことを切に願う。また、調査地域、所属機関によっては、調査のための謝金等の発生が生じる。これも調査上不可避な要素であり、支援対象の一つとして考慮する必要があると考えられる。ついては、より一層充実した研究成果を得るためにも、使途目的を多様化していただきたい。二つ目には、支援金の限度額の改定がある。現在は20万円が上限となっているが、アフリカや南北アメリカなど、地域によっては、交通費(航空運賃)のみで限度額に達してしまう場合がある。昨今の原油高が影響し、交通運賃は一層高額化している現状を鑑みると、上限20万円では、研究対象地に渡航したとしても、調査活動資金が不足し、充実した結果を出せないことも考えられる。限度額を改定していただくことによって、研究上の地域差が多少なりとも軽減されることを期待する。