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国内学生派遣関連事業 研究成果レポート

佐貫 正和(日本歴史研究)

1.事業実施の目的

2.実施場所

3.実施期日

平成21年2月28日(土)から3月9日(月)

4.成果報告

テーマ 「八重山自治会(八重山共和国)をめぐる資料収集」

●事業の概要

本調査の前提として、東京で「八重山共和国」がどのように論じられてきたかの経緯とその問題点を挙げよう。桝田武宗氏(『八重山共和国―八日間の夢』筑摩書房、1990年)は、八重山諸島の石垣島では、1945年10月頃から八重山自治会の結成準備会が検討されて、1945年12月15日~12月23日に八重山自治会が発足して、1945年12月27日にアメリカ軍政府下に置かれた八重山支庁政治に移行したという一連の流れを「八重山共和国」という名前で説明している。桝田氏は第1に、1988年頃から八重山自治会のメンバーに聞き取りを行った結果、メンバーが八重山自治会を「八重山共和国」と認識していたと指摘した。第2に、八重山支庁の文化部社会課長だった桃原用永『戦後の八重山歴史』の中の「八重山自治会長(八重山共和国大統領)に選出された宮良長詳氏は…」という指摘に基いて、「独立国家・八重山共和国」は当時の八重山の住人たちにコンセンサスを得ていたと指摘した。第3に、八重山自治会の構想や「国家理念」は八重山支庁政治に全てが引き継がれていったと指摘した。

斎藤憐氏は、桝田氏の影響を受けながら、フィクションと笑いを交えた歴史演劇として、郡民大会頃の人々を描き出しながら、地域の住民にとって共和国や共和主義が一体どんな問題として成立するのかを次のように提示した(斎藤憐『豚と真珠湾―幻の八重山共和国』而立書房、2007年、29~31頁)。


喜舎場アサコ(糸満出身の密貿易業者)  (「海南新聞」復刊第1号を読んで)「われわれは日本国国民として生きることを望んではいない!平和に生きてきた琉球民族の国家を再建し、海洋の民として生きることを望む!」あがや―。八重山共和国、独立しちゃったの?

桃原用立(小学校教師)  米軍も来ない。日本政府からなんの指令もない。どうすりゃいいんだって話し合ううちに…

アサコ  (読んで)宮良長詳自治会長が「人民のための人民による人民の八重山共和国政府は今ここに誕生したと宣言した」。ってことは糸満のワシが八重山にくるにゃ、パスポ―トがいるってことだ。


(中略)


用立  先日の郡民大会で、われわれは八重山共和国の独立を宣言しました。みんな、帝国と共和国はどこがちがうか説明しろっていうんです。

南風原ナベ(料理屋の主人)  今日は、共和国、明日は明日国になんのかね。

比嘉長輝(中学の歴史教師)  英語のリパブリックを共和と訳したんだけどね。王様や殿さまのための国家じゃなく、そこに住んでいるすべての人のための国家。つまり、デモクラシ―は…。

ナベ  デモクルシ―てななんだ?

長輝  日本語では民主主義。民が国の主ってことだ。八重山の未来を誰かが決めるのではなく、みんなで考えて決める、それが民主主義だ。

ナベ  バヌが考えんかい?

長輝  私たち教師は、この十数年、君たちに天皇陛下のために死ねと教えてきた。だから、君たちは自分で考える習慣がない。

ナベ  自由は、空恐ろしいさあ。わしらのようななんも知らんもんがなんでも決める…。いいのか、そんなことして。

長輝  わしもです。だからこれから、みんなで考える練習だ。


今回私は、図書館の資料調査を基本にしながら、郷土の歴史家(大田静男氏と三木健氏)、博物館、石垣市史編纂所、石垣教育委員会などで聞き取りを行い、思想史の立場から「八重山共和国」の実体を考えるために必要となる問題や課題として、以下4点を調査した。

第1に、八重山自治会と八重山支庁にかかわる人物とその周辺の資料を調査して、「八重山共和国」の有無と内実を調査した。従来、東京の文献を読む限りでは、八重山自治会が「八重山共和国」と認識されたのは1945年の当時のことなのか、戦後の後付け解釈なのかが不明であった。私は、先ず、八重山自治会の特徴を「共和国」と最初に名付けた人物が大江志乃夫氏(『日本の歴史31戦後改革』

小学館、1976年)であり、次に、それを桃原用永氏が参考にして「ミニ八重山共和国」や「ミニ八重山共和国大統領」という言葉を使い、最後に、桝田氏や斎藤氏が桃原氏を踏襲したという経緯が判明した。つまり、1970年代に東京で共和国と命名されたものが、八重山に輸入されて、それが再び東京に輸入されたということである。管見の限りでは、敗戦後の人々は「共和国」という名前を使用していないので、桝田氏・斎藤氏が敗戦当時の人々が「独立国家・八重山共和国」を明確に自覚していたような叙述は、歴史的事実とフィクションを混同させる恐れがあることが判明した。もちろん、フィクションには、虚構を通じて当時の人々の意識の深層や無意識を浮上させる文学的な効果をもちえるので、それ相応の意義があることは間違いない。しかし、桝田氏と斎藤氏には、大江氏から桃原氏に「共和国」という命名が伝えられた点や、敗戦当時の人々は「共和国」を自覚していなかった点などをはっきり述べていない点では誤解を招く恐れがある。

第2に、敗戦当時の人々が「共和国」という名前を自覚してはいなかったとしても、八重山自治会を「共和国」と評価できる特徴があるかどうかを調査した。具体的には、敗戦後の混乱の中で八重山自治会や八重山支庁にかかわった、宮良長義(八重山支庁・総務部長)、宮良高司(八重山自治会)、桃原用永(八重山支庁・文化部社会課長)、喜舎場永じゅん(八重山支庁・石垣町議員)、村山秀雄(八重山支庁・秘書課長)、宮良長詳(八重山自治会結成準備会、八重山支庁議員)、上間貞俊(八重山自治会結成準備会、八重山支庁・大浜村議員)、石島英文(八重山自治会結成準備会)、島袋全利(八重山自治会結成準備会)、安里栄繁(八重山支庁・文化部長)、糸数用著(八重山支庁・文化部学務課長)、冨田孫秀(八重山支庁・商工課長)らに関連する資料を調査・蒐集した。その特徴を歴史的に評価するのは、今後の課題なのだが、少なくとも、自治をめぐる運動とそのネットワークがあったことは確実といえる。先行研究者たちは、戦争で破壊された八重山地域住民の生活を地域住民の手によって再建しようとした自治の動きを「人民の人民による人民のための政治」を意味する「共和国」と名付けてきたといえる。

「八重山共和国」を考える上で1つ目の課題としては、戦前や戦中に軍国主義意識の高揚を担った知識人層が、責任を自覚する事のないままに自治会に参加して戦後復興に参加していったために、戦争責任の問題が希薄になってしまったという問題がある。2つ目の課題としては、八重山自治会のトップに教員と医者という石垣島の理想的な知識人たちが参加したが、実質的に自治を担っていたのは八重山支庁の職員や公務員たちであった可能性がある。つまり、トップの知識人に注目すると「共和国」という理想的な評価をしたくなる傾向が生じるが、それを実質的に支えた役人層に注目すると、市政政治の一般的な評価をする必要が出てくる。換言すれば、桝田氏は、自治会をめぐるさまざまな動きをあえて単純化して「共和国」という言葉に集約していったといえるのではないだろうか。3つ目の課題としては、石垣は、もともとの住民、沖縄本島や本土の居留民、日本兵、旧植民地の人々などが多様に出入りする流動的な地域であり、交流や抗争が頻繁に起きてきた場所なので、石垣の自治を重層的に捉えることができなければ、非常に単純な歴史像を提示してしまうことが自覚できた。

第3に、八重山自治会が発足した1945年12月15日の「八重山郡民大会」では1千人が集まったとされるので、その大会の内実を示す資料がないかを、郡民大会が開かれた万世館(映画館)や図書館などで調査したが、残念ながらその資料は見当たらなかった。ただし、敗戦直後の文学雑誌は一通り蒐集する事ができたので、当時の人々の意識の実体をより丁寧に分析していきたい。

第4に、1980年代以後の石垣や沖縄では、八重山自治会を「八重山共和国」と呼ぶコンセンサスが、ある程度は存在していることが判明した。例えば、大田静男『八重山戦後史』ひるぎ社、1985年、58~59頁、『八重山毎日新聞五十年史』八重山毎日新聞2000年、27頁、比嘉康文『「沖縄独立」の系譜』琉球新報社、2004年、18頁などは、「八重山共和国」という言葉を使い、自治や独立の可能性を述べている。八重山や沖縄の現代史の中で、ある一定の人々が、「共和国」という言葉とその可能性にこだわり続ける意識の特徴や、その課題を明かにする事も重要な意義があると思われる。その問いは、共和主義という思想史的問題を、沖縄や八重山という場所で考える独自性を明らかにすることにつながる可能性をもちえるといえる。

●本事業の実施によって得られた成果

本事業の実地によって得られた成果としては以下2点が挙げられる。

第1に、ジャーナリストや演劇などで注目が集まっていた「八重山共和国」の具体的な経緯と課題が明かになった。この問題は日本の共和主義研究は全く注目していないテーマである。私としては、近代日本の共和主義研究を幅広く行う上で「八重山共和国」というテーマをどのように位置づけるかは今後の課題であると捉えている。ただし、現段階でいえることとしては、自治や独立をめぐる文脈の中に「八重山共和国」という言葉と可能性がたびたび浮上してきた事の意味は一定の意味を持ちえるのではないだろうか。従来の近代日本の共和主義は、自由民権期における都市在住の民権家の理念に重きを置いていたが、敗戦後における八重山住民の具体的な自治活動に共和主義的な要素や意識があるとするならば、従来の抽象的な共和主義とは異なる、より具体的な共和主義という問題を考えることができるようになる。

第2に、近代日本の共和主義研究は、思想家の理論や構想の特徴と課題を研究するものがほとんどである。私の博士論文でも、丘浅次郎や正木ひろしなどの、思想家の理論や構想を中心軸にすえて考察を行うが、その中に補論的要素や比較史的要素として「八重山共和国」というテーマを組み入れることで、共和主義が、具体的な地方自治や独立問題というテーマに連なる可能性を持った幅ひろい思想であることを主張できる。私は、「さまざまな共和主義」というテーマを掲げながら共和主義研究を行っているが、今までは「さまざま」という具体的内容が思想家の言説に限定されていたので、共和主義研究の幅と厚みを持たせる上で、今回の調査を行なえば新たな可能性が拓けると考えている。

●本事業について

私は本事業を学生の研究の為に行う事業と捉えています。今後は、総研大以外の人々や総研大を卒業した人々にも何らかの形で情報提供や参加の可能性が開けていくと、より幅広く重層的な研究や調査が可能となるのではないかと期待しております。