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海外学生派遣関連事業 研究成果レポート

伊藤 渚(比較文化学専攻)

1.事業実施の目的

1)ラオス国立大学にて、これまでの研究成果を発表する。
2)ラオス国立大学にて、今後の調査のための所属手続を行う。
3)ラオス語の学習。
4)ビエンチャン市内の手織物工房での調査。
5)9月に開校する染織専門学校の調査。(※開校延期につき実施せず。)

2.実施場所

ラオス人民民主共和国ビエンチャン特別市

3.実施期日

平成21年7月22日~平成21年9月27日(68日間)

4.成果報告

●事業の概要

 今回の滞在の目的は大きく分けて2つあった。ひとつは、博士論文のため、地方で行う予定のフィールドワークの準備であり、もうひとつは修士論文で行った首都ビエンチャンでの調査の補足調査である。
 まず、博士論文のため、地方で行う予定のフィールドワークの準備について述べる。
 具体的には、今後の調査のため、ラオス国立大学・社会科学部に研究員として所属を得る予定であり、その申請手続をラオス国立大学で行った。
 申請者が博士論文にむけて、調査を実施しようとしているのは、ラオス北部に位置しベトナムと国境を接するホアパン県である。ラオス人民民主共和国は社会主義国であり、2000年代に入るまで、長期にわたる村落分での人類学的調査・研究は困難であった。特に、申請者が調査の対象とするホアパン県は軍事施設が存在し、近年まで外国人の立ち入り制限がされていた。ラオスの村落部、とりわけホアパン県の村落部において調査を行うには、ラオス側のカウンターパートを通して調査許可の取得する必要がある。
 今回は、申請書類一式を大学側に提出し、大学を通じてラオス外務省から受入許可を得ることまではできた。しかし、大学本部で作成してもらう、学長のサイン入りの書類が滞在期間中にはできあがらず、調査許可証そのものの受取は次回に持ち越しとなった。
 今回、カウンターパートとの関係維持のために、もうひとつ予定があった。申請者は、修士課程時にも、ラオス国立大学に研究員として所属していた *1 。研究員として受け入れられた外国人は、調査終了後、その成果を文書で提出し、さらに口頭発表することになっている。今回の滞在期間中には、この口頭発表を行う予定であった。
 ところが、本年は、12月に、ビエンチャンでASEAN SEAゲーム(アセアンオリンピック)が開催される予定になっており、政府関係のみならず、大学もこのイベントの実施に協力しており、年間スケジュールもこれにあわせて変更されるといった状態であった。ラオスの学校の本来の年間カレンダーでは、7月上旬に年度が終了し、10月から新学期が始まる。申請者は、教員に比較的暇があるこの大学の授業の休業期間に発表を行う予定であった。しかし、今年は、SEAゲーム開催のために、始業日が前倒しになり、8月半ばから授業がはじまった。また、申請者の修士課程時のラオス国立大学の担当教員が職を辞しており不在であった。こうした事情が重なったため、今回、口頭発表は行わず、研究成果を文書で提出した。
 次に、修士論文で行った首都ビエンチャンでの調査の補足調査について述べる。成果は3点あげられる。
 まず、ノーンブアトン村 *2 を中心に、ビエンチャン市内の手織物工房のいくつか(ペンマイギャラリー、ファイナーシングス、マイチャン)でオーナーや織物活動を行っている女性たちから聞き取り調査を行った。その結果、1960年前後以降のラオスにおける織物の商品化と織技術の変容の概要が明らかになった。
 次に、ラオ・スタイルの服をデザイン・製作している縫製会社(クアマイ)のオーナーからも聞き取り調査を行った。その結果、現在、ラオ・スタイルとして定着している民族衣装がどのように始まり、広まっていったのか知る手がかりを得た。
 最後に、1998年に設立された、ラオス手工芸協会(LHA)の事務所でインタビューを行った。その結果、ラオス手工芸協会の理念、目的、会則、組織、諸族団体について詳しく知ることができた。
 こうした補足調査は、博士論文の主題ではないが、村落部の事象を理解するうえで、理解を欠かすことのできない手工芸をめぐる実情である。その理解が深まったことは、今後の村落部での調査においても大いに役立つと考えられる。

●学会発表について

*1 申請者は、修士課程時は名古屋大学に所属していた。名古屋大学は、ラオス国立大学と、交換留学協定を結んでおり、所属を得ることもそれほど難しくはなかった。
*2 ノーンブアトン村は、ビエンチャン市街地から北へ4kmほどの距離にある。
 村の一角にペンマイギャラリーがあり、その周囲には彼らの親戚たち数十家族の家がある。みなホアパン県、シェンクワン県出身の赤タイ(タイ・デーン)で、ペンマイギャラリーのオーナー家族を含めたほぼ半数はホアパン県ホアムアン郡ムアン・オー村から来た人たちである。村に田畑はなく、ほぼすべての家で織物が行われている。主にシンを織って、市場(タラート・サオ)に卸しており、それが各家族の主な収入源となってきた。

 ラオス国立大学にて、修士論文の成果を発表予定であったが、上記の理由により、今回は行わなかった。

●本事業の実施によって得られた成果

今回調査で得られた結果のうち、博士論文研究に最も大きな意味を持つと思われるのは、ノーンブアトン村を中心に、ビエンチャン市内の手織物工房のいくつかでオーナーや織物活動を行っている女性たちからの聞き取り調査の結果である。この聞き取り調査から、1960年前後以降のラオスにおける織物商品化の経緯と織技術の変容の概要を明らかにすることができた。
 移住を経験している人々の住むビエンチャンの村の事例、特に、織技術変容の過程が、申請者が博士論文研究のために調査を行う予定であるホアパン県の状況にそのままあてはまるとは必ずしも言えない。しかし、戦争、社会主義革命、そして市場開放と近年の経済発展というプロセスは、「ラオス」という同じ国の中での共通の経験である。また、現在も村落部にとどまっている人々も、家族や親族の中に移住者がいる場合が多く、移住者の経験が、村落部の人々の経験と間接的に関わりを持っている可能性は高いと考えられる。
 以下、現在わかっているホアパン県の状況も交えながら、ラオスにおける織物商品化の経緯と織技術の変容について述べる。

 ラオス手織物産業の歴史について言及している赤嶺綾子(赤嶺・2001)の分析に、申請者が行った関係者から聞き取りの結果をあわせると、ラオスの手織物の商品化の経緯は、主に以下の4期に分けて考えることができる。
【第一期】:第二次世界大戦後から社会主義革命(1960~)
【第二期】:社会主義革命期~市場開放(1975~)
【第三期】:市場開放後(1986~)
【第四期】:経済発展の進展(1996~)
 以下、それぞれの時期の織物商品化の経緯を述べる。また、それとあわせ、ビエンチャン市に所在し、織物生産に携わっているノーンブアトン村 の赤タイ族の女性たち各世代の織物経験や習得技法の概要を併記する。

【第一期】:第二次世界大戦後から社会主義革命(1960~)
 革命勢力の本拠地のあったシェンクワン・サムヌア地域から、アメリカ軍の爆撃を逃れて、人々が難民として流出、各地に移り住んだ時期である。
 アメリカ軍による解放区への爆撃は、1964年から1973年まで続いた。パテート・ラーオの本拠地のあったホアパン県一帯は、激しい爆撃を受けた地域であった。そのため、1960年~70年代にかけて、この地域から、アメリカ軍の爆撃を逃れるため、多くの人々が難民として流出した。
 革命勢力の本拠地のあったホアパン県一帯の村々にはまた、囲い込みや切り崩しのために、王国政府の軍隊も入っている。そのようにして王国政府軍にリクルートされた男たちや、王国政府軍の軍人の家族となってビエンチャンに移住した女たちもいる。
 ノーンブアトン村の女性たちのうち、10代後半~20代前半の時期をこの戦争以前の時代に、ホアパン県での生活を経験しているのは、70歳以上の世代である。
 ノーンブアトン村では、78歳の女性について話をきくことができた。
 その女性は、赤タイ(タイ・デーン)の民族衣装を作ることができ、糸作りもできる。ホアパン県から移住してまず移り住んだビエンチャン県のターラートでも、養蚕や綿作りを行っていたという。習得技法はジョック(緯浮織)とムック(経浮織)であった。紋綜絖(カオユン)は使ったことがないし、使うことを好まなかったという。ホアパン県では絣織(マット・ミー)は全くしていなかった。

【第二期】:社会主義革命期~市場開放(1975~)
 1975年、ラオス国王が退位しラオス人民民主共和国が成立する。この社会主義革命以後、国を閉じ、また、西側諸国からの援助が全面的に停止した。1986年の市場開放までの間、物資の不足やインフレの進行が慢性化し、人口の約1割にあたる30万人が難民となり国外へ流出したといわれる。
 革命後、ひとつの国としての「ラオス」の形成が目指されたが、当初の「新しい社会主義者(new socialist man)」政策が挫折した。その後、ラオスというアイデンティティの拠所は主に「ラオ」の文化と道徳に求められるようになり、「シン」がナショナルドレス化していくことになった。(Evans・1990、赤嶺・2001、Pholsena・2006)
 ノーンブアトン村の女性たちのうち、戦争から社会主義革命にかけての時代に10代後半~20代前半を過ごしたのは、60歳前後の女性たちである。婚期にあたる16歳前後が戦争の激しい時期にあたっており、結婚してすぐに村を離れたという女性が少なくない。織物を覚えたのはホアパン県アの母村であり、村の記憶もある。
 彼女たちの中に、赤タイ(タイ・デーン)の服を作ることができる女性はまれで、着た経験がある者もほとんどない。糸作りの記憶も、母の手伝い程度の女性が多い。
 ビエンチャンに移住後、市場でナイロン製糸付紋綜絖付筬を購入し使用するようになった。さらに、田畑のないノーンブアトンに移住するに至って、織物が主要な収入源となった。絣織を習い、行うようになったのはそれ以降のことである。経緯ともに絹糸を用いて織物をするようになったのも、パービアン(肩掛けショール)を織るようになったのも、商品としての布を製作するようになったビエンチャン移住後のこの時期である。

【第三期】:市場開放後(1986~)
 各種の手工芸振興プロジェクトや海外向けの手織布の生産がはじまる。また、コレクターによるアンティーク布の買占めにより、村からアンティークの布がすべて消えると同時に、ラオスの織物が世界に知られるようになった時期である。  1990年前後から、外国市場向けの手織布を作る工房ができはじめた。しかし、この頃の手織物工房は、まだどこも小規模であった。このころは、地方産の手織布も、ビエンチャンには、まだほとんど出回っておらず、ホアパン県一帯で作られるスタイルのシンもビエンチャンではあまり知られていなかった。
 この頃はまだ地方で織られた布がビエンチャンの市場で売られることは少なく、地方の人々が商品としての布を織ることはまれだったようである。
 ラオスの手織布が外国でより知られるようになるに従い、まず増加したのは、アンティーク布を求めるコレクターであろう。市場開放以前から起こっていたアンティーク布の流出が、この頃、さらに加速し、村からアンティークの布がほぼすべて消える結果となった。
 ノーンブアトン村の女性たちのうち、この時期に20歳前後を迎えたのは現在40歳前後の世代である。この世代は、ホアパン県での生活経験が無いか、あってもほとんど記憶していない。糸作りの経験もない。しかし、ディン・シンやシンなど、自分用の布を織った経験があり、染から織までひととおりの工程を習得している。
 絣織(ミー)や緯浮織(ジョック)、場合によっては綴織(ギアップ・ジョック)もできる。織物を始めた頃からナイロン製糸紋綜絖付筬を市場で購入して使用してきており、紋綜絖に紋様をセッティングすることもできる。注文を受けるなどの機会がなければ、経浮織(ムック)を織った経験はなく、技法としても習得していない。
 学歴が高く、実業家になるのもこの世代である。

【第四期】:経済発展の進展(1996~)
 布の商品化が急速に進行し、ホアパン県一帯を中心とした北部地方で織られた布がはじめて商品となりビエンチャンの市場にも出回るようになった時期である。
 1995年、「古都ルアンパバーンの街並」が世界遺産に登録されたことをひとつのきっかけとして、整備の遅れていた北部と中部を結ぶ道路網の整備が進んだ。整備された道路ができると、山から下りてきて道路沿いに移転する村が増えた。また、運送網の整備は、出稼ぎの増加や、換金作物栽培の増加をもたらした。観光客も増大し、都市部にはラオス人富裕層や中流階級が出現するようになった。
 この急速な市場化・国際化の中で、ラオスの手織布の商品化も急速にすすんだ。ラオスの手織物の商品化は、主に2つの枠組みの中で推し進められている。ひとつは、外国人が満足する「高品質」な「布(ファブリック)」を織り、外国人に提供するというパターンである。これは、主に手織物工房で織られ、外国人顧客に売られる。もうひとつは、公的・私的を問わずフォーマルな場で着用する正式な衣装として、ナショナルドレス化している民族衣装である、シンやパービアンなどを織り、主に都市部のラオス人に提供するというパターンである。これは、村落部で織られ、都市部に運ばれ、市場などで主にラオス人に売られる。後者のパターンは、1996年頃からの経済発展により、都市部にラオス人富裕層や中流階級が出現、織物マーケットの主要な購買層となったことと関連している。
1998年には、ラオス手工芸協会(LHA)*3 が設立され、手織物産業はますます活発になっていく。

 ホアパン県サムヌア郡ムアン・ウェーン村の村長によれば、ホアパン県の市場の商人が村にやってきて布を注文するようになったのは1996年以降のことだという。ベトナム国境に近い、ホアパン県ビエンサイ郡ソーイ村でも、この頃から2000年まで、シンやディン・シンを織って、ベトナム人商人に売っていたという。
 1996年以降の交通網の整備や経済発展は、ホアパン県農村部の素材糸にも影響を与えた。ムアン・ウェーン村の村長によれば、マイ・ビエット(ベトナム産の機械製糸の絹糸)がホアパン県の市場に出回り、村の女性たちが使うようになったのは1996年以降のことだという。また、この年から2003年まで、ムアン・ウェーン村では、ビエンチャンのT社の依頼で大規模なマイ・モン(座繰り糸)の生産を行っていたという。
 ノーンブアトン村の女性たちの中でも、80年代後半~90年代に生まれた女性たちは、絣織の糸染や、紋綜絖の紋様のセッティングができず、基本の織しかできないことが多い。織物を習得していない女性もいる。多くは、自分用の布を織った経験もない。

<参考文献>
赤嶺綾子
2001 「ラオス社会における商業活動: ヴィエンチャン市内の手織物販売業の事例から」『龍谷大学経済学論集』40-5:1-21頁、龍谷大学経済学会:京都。
Evans, Grant
  1990 Lao peasants under Socialism. Yale University Press: New Haven.
Pholsena, Vatthana
  2006 Post-war Laos : the politics of culture, history and identity. Silkworm Books: Chiang Mai.

*3 ラオス手工芸協会(LHA)は、ラオス商工会議所に所属する団体のひとつで、1998年4月、政府の認可を得て創設された。ラオス伝統織物、銀製品、木材・籐・竹、伝統紙、文化品・鉄芸術品・陶芸品、食料加工の6部門に分かれている。手工芸を通じビジネスを展開しようとする会社の集まりで、資金情報など、経営に関する各種情報を得るための組合である。会費を払って登録すれば、誰でも会員になれる。
 毎年11月1日~5日、ビエンチャンで、「ハンディクラフトフェスティバル」を主催している。フェスティバルには、ラオス全国から手工芸協会の加盟団体が製品を持って集まるほか、海外から講師を招いての講演やワークショップなども行われる。しかし、このフェスティバルで販売される布の多くは価格設定が高く、訪れたラオス人の間からは、「普通のラオス人には買える値段ではない」との声もきかれた。
 この会の立ち上げに中心的な役割を果たしたのは、会の初代代表もつとめた、手織物工房Nのオーナーであった。以来、会の実質的な運営は、テキスタイル部門に登録する団体の代表が行ってきたという。また、2007年の登録団体数は130で、うちテキスタイル部門の登録団体は半数を占める65である。これらのことから、手織物部門はLHAの中心部門であるといえるだろう。

●本事業について

 海外でのフィードワークが博士論文研究において必須である、申請者のような立場の学生にとって、このような事業による援助は、たいへんありがたいものです。