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国内学生派遣関連事業 研究成果レポート

佐々木 比佐子(日本文学研究)

1.事業実施の目的

「齋藤茂吉研究」をすすめる為に、主に齋藤茂吉の少年期の書画、 書簡、凧絵、及び手沢本の『万葉集代匠記』を調査する。

2.実施場所

山形県上山市の齋藤茂吉記念館、及び山城屋旅館併設書画展示室

3.実施期日

平成21年9月24日(木)から9月26日(土)

4.成果報告

●事業の概要

 齋藤茂吉研究「近世学芸の享受」―The reception of the arts of early modern Japan―のはじめとして、少年時代の茂吉についての第一段階の調査を行った。
 斎藤茂吉は、山形県南村山郡金瓶村の農家、守谷家の三男として生れ、そののち明治29年(1896)十五歳の年の八月に、血縁関係のある医師齋藤紀一の養子となるべく上京する。その上京以前の、守谷茂吉であった頃に制作した書画が、故郷には残されており、現在は山形県上山市の齋藤茂吉記念館と、茂吉の実弟が経営していた山城屋旅館・書跡展示室において目にすることが出来る。
 茂吉にとって、文学というものに覚醒する決定的契機となるのは、やはり正岡子規の遺稿集『竹の里歌』との出会いである。子規の歌とは、上京してから8年後の出会いとなるのであるが、それ迄の茂吉が文学に係っていなかったという訳ではない。「三筋町界隈」という随筆には、十六歳のときに養父・紀一から賀茂真淵書入れの「古今集」を貰い、その本を「天からの授かり物のように大切にして」いたという事が記されている。真淵書入れを茂吉はどのように受容したのかという事については、子規受容以降、生涯にわたって続けられる古典研究となにかしら係って来るようである。
上京した少年茂吉は、いかなる素地をもって賀茂真淵書入れ「古今集」を眺めた事であろうか。その素地をうかがい知るべく、今回は、上山市に残されている少年時代の茂吉の書画、書簡、凧絵等の調査を行った。

●本事業の実施によって得られた成果

 齋藤茂吉記念館においては、常設展示品のなかの少年時代の書、絵画、凧絵等を確認した。山城屋旅館においては、併設の書跡展示室の書簡、書、凧絵、及び昭和9年に茂吉が弟四郎兵衛に贈ったという、手沢本の『萬葉集代匠記』の調査を行った。山城屋旅館当主の高橋豊二氏のご好意によって、ガラスケースから数点を取り出しての調査が可能となった。そのなかから、茂吉が上京直前の頃、書家・中林梧竹の手本を双鈎しその中を赤い顔料で埋めた手習い帳、また上京して間もない頃に戦地の兄に宛てた書簡の撮影を行った。手沢本という『萬葉集代匠記』全5冊についても調査を行った。
 齋藤茂吉の故郷である山形県上山市を訪ね少年時代の書跡等をまのあたりにし、あらためて上京以前の茂吉の書表現の力量に感じ入ることとなった。「ひとつ絵かきの修行にでも出掛けようか、それとも宝泉寺の徒弟になつてしまはうか。」(『山蚕』昭和3年)と後年自ら記しているように、絵を描くこと、また文字を書くこと、つまり毛筆を執って表現するという事に、茂吉は少年の頃より非常な関心を抱いていたという事実に納得させられた。
 上山市に於いては、①齋藤茂吉記念館と②山城屋旅館を調査した。

常設展示品のなかに少年時代の書、スケッチ画、凧絵等を確認した。なかでも目を引いたものは、六朝書といってよい書法で「作文草稿」と書かれた明治二十五年、茂吉十一歳のときの書であった。茂吉は、小学校時代から作文を好み、又模範文とされるなど作文が上手であったようである。スケッチ画は、「小學習畫帖」と表紙が付けられており、馬を描いたものが展示されていた。明治27年、茂吉十三歳のときの作品であるが、形態の全体的把握にすぐれており、茂吉の並々ならぬ描写力を伝えている。
旅館併設の書跡展示室には、茂吉が実弟四郎兵衛に与えた自らの著作が、歌一首に署名を添えて多数残されている。 ほとんど全部が初版である。ここに展示されている凧絵は、岩波文庫の『斎藤茂吉随筆集』のカバーカットになっているもので、十三歳のころ描いたものとされている。彩色のない墨色のみで描かれ、金太郎が熊を押さえつけている図柄の表情がユーモラスである。凧絵は、様式化された技法で制作されるようであるが、実際にまぢかに見ると茂吉の筆使いの巧みさには驚かされる。そして、上京直前の十五歳のときに制作した手習い帖の出来栄えの見事さは、少年茂吉の几帳面さと卓越した表現力を示している。書家・中林梧竹の書いたという「アイウエオ」を下敷きに双鈎して、墨の代わりに赤い顔料をもちいて埋めている。書簡は、特に上京前後のものということで、茂吉が開成中学に在籍していたころ明治三十二年の書簡に注目した。台湾に出征していた兄に宛てて書いたものである。ここに見られる書法は、おそらく開成中学における書の師であった西川春洞の影響によるものではないだろうか。きわめて達者な中国の書法による書きぶりである。このような、書表現に対する並々ならぬ力量を持つ茂吉が 東洋芸術の在り方に深い理解を抱いていたことは、容易に想像される。そして、賀茂真淵の書き入れ本を眺めた少年茂吉の目というものがどのようなものであったかを思う時、それがどのように受容されたのかという問題は、書というものを理解する茂吉の素地を踏まえて考えてみると、大変に興味深いものである。手沢本『萬葉集代匠記』 全五冊は、明治39年発行の木村正辭の校訂によるもので、各首に赤インクを用いてアラビア数字がふられていた。ただし、それ以上の書き込みは見あたらなかった。大変丁寧に扱われていた書物のように見受けられた。

●本事業について

比較的自由に研究を進めるための支援を、たいへん嬉しく思います。