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国内学生派遣関連事業 研究成果レポート

戸矢 理衣奈(国際日本研究)

1.事業実施の目的

博士論文完成のための資料収集

2.実施場所

資生堂企業資料館(静岡県掛川市)

3.実施期日

平成22年2月12日(金)から3月21日(日)

4.成果報告

●事業の概要

 資生堂企業資料館(静岡県掛川市)に所蔵されている資生堂による収蔵資料を調査した。同資料館には一八七二年創業の資生堂における刊行物や社内資料、製品やポスターの他、同社が収蔵した稀少書籍等が収蔵されている。企業関連資料は一般に国会図書館、大学図書館等でも収蔵が非常に限られており、企業史研究者のネックとなっている問題であるが、今回は同資料館より資料の閲覧許可を頂き、公共図書館では入手できない資料を調査することができた。そのなかでも博士論文のテーマである、資生堂の初代社長である福原信三がいかにして『東京銀座資生堂』との強力な企業イメージを構築しえたのかという問題の背景を検討することを目的として、特に以下の資料を閲覧した。

①資生堂による出版物
 一九二四年に顧客向けに発行された資生堂の広報誌『資生堂月報』(現在の『花椿』の前身)、チェインストア加盟店向けに配布した社内誌である『チエインストア』『チエインストアスクールニュース』等を閲覧した。 一方で資生堂では福原信三が資生堂ギャラリーを中心にして、帰朝者を中心にした趣味のサークルに活動の場を与えていた。なかでも写真については信三が中心となり、資生堂内に事務所を置いて「写真芸術社」が設立され、一九二一年から二三年まで月刊誌『写真芸術』が刊行されていた。同誌についても今回の訪問ですべて閲覧することが出来たが、信三による寄稿も多く、写真論のほかにも芸術論、住宅論など信三の資生堂における事業を理解するにあたって重要な示唆となる記述を多数、得ることが出来た。

②関係者へのインタビュー記録、資生堂への遺贈品など
 関係者からの寄贈、遺贈資料をはじめ、過去に資生堂で社史などを作成された際にのこされたインタビュー記録などについても閲覧の許可を頂いた。例えば意匠面で資生堂の企業イメージの形成に重要な役割を果たした山名文夫が青年期に関与したきわめて少部数の同人誌や、福原信三のニューヨーク留学時代の私信などを閲覧することが出来た。関係者の肉声ともいうべき記録を多数、閲覧することで、当時の資生堂関係者のイメージが非常に明確になった。

③製作物
 資料館に保存されている化粧品やポスター、カタログなどの実物とともに、データとして残されている豊富な画像資料に接することが出来た。館内展示においても、創業当初からの広告から現在のテレビCMなど多彩な画像資料を閲覧した。

④稀少本
 資料館には日本最大と推定されている銀座関連書籍のコレクションや、明治から昭和初期における広告、デザイン関連資料などの稀少本が多数、所蔵されている。国際日本文化研究センターはもとより、国会図書館、東京大学附属図書館等で閲覧が出来なかった資料を多数、閲覧した。

●本事業の実施によって得られた成果

 上述の通り、企業研究を行うにあたって企業関連資料は不可欠であるものの公共図書館においてはその収蔵がきわめて限られている。今回は資生堂企業資料館での調査が可能になり、博士論文執筆のうえでも不可欠な一次資料を大量に閲覧することが出来た。博士論文については草稿が完成した段階であるが、最終版提出までに更なる調査が必要な点についての一次資料を多数、入手することが出来た。 具体的には以下の点が今回の調査によって得られた知見の主なものである。 ①資生堂イメージの形成過程
 資生堂は創業者、福原有信の三男の信三が経営に参画して以降、西洋調剤薬局から化粧品メーカーへと急成長を遂げるとともに「東京銀座資生堂」のイメージを確立していく。広報誌『資生堂月報』においては銀座そして資生堂が最新流行発信地として位置づけられ、化粧品のみならず銀座の流行情報が頻繁に掲載され、都市文化が喧伝されていく。資生堂は一方で全国のチェインストア加盟店に対しても銀座で一週間の「チエインストアスクール」として経営論や美容理論や実技などの講習を提供していた。この「卒業生」を対象にして発行された『チエインストアスクールニュース』では、世界恐慌そして産業の合理化政策を背景にするなかでいかに「銀座」が全国の小売店の精神的紐帯として機能していたかを窺うことが出来た。

②資生堂の意匠の原点と『写真芸術』
 資生堂は「資生堂調」とも称される独自の広告意匠で知られているが、その原点は信三自ら率いた意匠部にある。「資生堂調」のデザインや広告方法は、「広告戦」とも称されるほど派手な街頭宣伝を繰り返していた同業他社をはじめ、当時の大手メーカーの広告とは一線を画するものであった。そうした特色あるデザインが確立する背景となる信三の発想が不明瞭であったが、信三が中心となって刊行していた雑誌『写真芸術』をはじめとした写真専門誌における信三の写真論、芸術論に注目することでその原点を探る事が出来た(信三は写真史においても、映し手の個性の投影を強調した芸術写真の唱道者としてその名を遺している)。
信三は写真を芸術の領域にまで高めるべく尽力しているが、そこでは撮影者の個性をきわめて重要視しており、模倣や、「型」にはまることについて厳しく批判している。こうした発想の数々は資生堂意匠部員の回想ともあわせて検討すると、資生堂で信三が目指した意匠の原点にも重複するものであると考えられる。また、資料館所蔵の稀少雑誌『広告界』などでは、信三が都市美観保持のための積極的な活動を行っていたことなども窺うことができた。

③資生堂パーラーとギャラリー
 信三が資生堂の全国展開を行い、「東京銀座資生堂」のイメージが拡大する過程においてはパーラーやギャラリーの開設が大きく貢献していた。信三は帰朝者を中心にした趣味のサークルを組織し、ギャラリーやパーラーは彼らが気軽に集まる場を提供したが、そうしたサロン的な雰囲気が人々の憧れの対象ともなっていた。彼らの交流についても残された私信や関連資料などからも窺うことが出来た。

●本事業について

 繰り返しになりますが、特に企業研究においては公共図書館での資料閲覧の機会が殆ど無く、多くは遠隔地への訪問が不可欠になります。さらに、資料が多ければ多いほど、滞在も長期にわたるため、このような形で研究支援を頂けることは論文執筆のうえで非常に有難く、感謝しております。