総研大 文化科学研究

論文要旨

構築される「郷土」観

―柳田国男における概念化の意義をめぐって―

文化科学研究科・日本歴史研究専攻 室井 康成

キーワード:

郷友会 「都市」の文化力 定住 郷土人 〈われわれ〉意識

本稿は、日本民俗学の創始者として位置付けられる柳田国男の「郷土」観の特性と、柳田による概念化の意義について検討したものである。

今日、「郷土」という語は、一般に広く普及しているが、これら巷間で使用される「郷土」は、「われわれの郷土」のような文脈で、当該地域の住民が自らの居住地域を指して使用され、それらの多くは市町村以下の狭隘な範囲を示す場合が多い。また、「郷土芸能」や「郷土料理」という語感には、ある種の郷愁や懐かしさが含まれ、時として御国自慢的な文脈で使用されることさえある。加えて、戦前の教育現場で声高に叫ばれた「郷土を愛する心」すなわち「郷土愛」の育成が、「愛国心」の発揚の出発点になるという言説は、今日なお再説されている。

一方、柳田の民俗学は、「郷土研究」として開始された。彼は研究開始の当初から同名の雑誌を主宰し、後に民俗学の理念と方法を説いた概論書を『郷土生活の研究法』として世に問うた。このように、民俗学と「郷土」概念とは、学史的にも分離し難い関係にあり、現に「郷土」の位相を明かにすることが民俗学の本義だと説く研究者もいる。そうなると民俗学は、予め措定された「郷土」という狭い社会を対象とし、「郷土」とされる地域の文化事象を評価し、かつ人々が形容しがたい郷愁や懐かしさを理論的に追認してゆく学問だということになる。だが、本稿で柳田の「郷土」をめぐる文脈を、彼の執筆活動の初期から、民俗学が確立したとされる一九三〇年代まで編年的に追った結果、彼の「郷土」観(概念化された郷土)もまた、一般に想起されるそれとは大きく異なるものであったことが明らかとなり、加えて彼が構想した民俗学もまた、狭隘な「郷土」という空間そのものを研究対象として慫慂したわけではないという仮説を得た。

本稿ではまず、柳田の言う「郷土」と一般に定着している「郷土」観との相違が、いつ、どのような要因で発生したのかを明瞭にするため、彼と同時代に生成された「郷土」を巡る言説との比較の必要性から、明治期の一八九二年に発刊し太平洋戦争中の一九四二年まで継続して刊行され続けた『古河郷友会誌』を例として、そこでの「郷土」の使用方法について検討した。すなわち、「郷土」という語は、明治期には人々の「出身地」という意味合いで、もっぱら都市で生活する出郷者たちの間で使用されており、今日でいう「ふるさと」とほぼ同義であった。それが一九三〇年前後から、都市部への出郷者ではなく、継続して出身地に住んでいる人々が、例えば「われわれの郷土」というように、自らの居住地域を指す語へと変質し、同時に、狭隘な個々の郷土を知ることが、「日本」という大きな枠組みを理解するための端緒になるというような言説が生まれ、改めて「郷土」がナショナルな文脈で使用されるようになった。この変化には、当時の文部省主導で行われた郷土教育運動の影響が窺え、この時期に培われた「郷土」観が、今日一般に認識されるそれの淵源になったと考えられる。一方、柳田もまた、研究を開始した当初は、「郷土」を都会の対概念としての「田舎」程度にしか認識しておらず、概念というほど、この語を重視していなかったらしい。が、一九二一年から二三年までの欧州滞在を機に、「郷土」が都市文化(=新文明)によって生活改変を来たす現場という意味合いに、俄かに概念化されてくる。それは地方が持つ秩序が、都市という窓口を通じて流入する新しい価値観によって崩壊するという、極めて現実的・社会的な課題を研究するという明確な目的が、柳田の中に生れたためであって、その契機は、第一次大戦後の西欧列強による植民地行政の審査という、滞欧中の国際連盟委任統治委員としての職務経験であった。その後、一九三〇年代に入り、柳田の説く「郷土」の輪郭が明瞭になってくる。すなわち、在野での研究主体を「郷土人」と位置づけ、彼らが自己の感覚において自由自在に構想する領域が「郷土」であるという主張であるが、先行研究でしばしば引き合いに出される「日本という大郷土」という彼の言は、「日本」という大きな枠組みの構成要素として「郷土」を位置づけたのではなく、むしろ「郷土人」の視点により、行政区画により限定された狭隘な範囲ではなく、より大きな空間にまで拡大する可能性があることを示唆したものであった蓋然性が高い。それは同時に、総力戦体制構築へ向けて国家主導で行なわれていた“上から”の「郷土」再編に対抗する形で構築された独自の概念であったことが明らかとなった。