総研大 文化科学研究

論文要旨

イスラエルのアラブ人村落における
メルキト派カトリック信徒と、
その社会に関する事例研究

―アイデンティティの形成とその様態―

文化科学研究科・地域文化学専攻 菅瀬 晶子

キーワード:

イスラエル、メルキト派カトリック信徒、ダール(アラブ人社会における父系親族集団)、選挙、帰属意識、アイデンティティ

本論文では、ユダヤ人国家イスラエルにおける宗教的・民族的マイノリティであるアラブ人キリスト教徒、そのなかでもメルキト派カトリック信徒に着目し、民族誌的記述をとおして彼らのアイデンティティの様態を描きだすことを目的としている。メルキト派カトリックとは、18世紀前半にシリアで誕生した宗派であり、イスラエル国内に約6.8万人の信徒を抱えている。言うまでもなく、彼らはすべてアラブ人である。ユダヤ人社会であるイスラエルのなかで、さらにはイスラーム教徒が圧倒的マジョリティを占めるアラブ人社会においてもマイノリティである彼らは、血族社会である農村に基盤を持ち、そこから都市へと商人あるいは労働者として出稼ぎに出るという特徴を持っている。そこで、本論文ではメルキト派信徒のみのアラブ人農村であるF村を調査地として、メルキト派信徒のみが存在する社会の様態を記述した。

村落社会の基盤は、ダールと呼ばれる父系親族集団にある。すべての村民はダールに属し、オスマン帝国時代の名残を残した地方行政制度である村議会制のもとで、一部の有力ダールが権力を握っている。ダールには村への定着の歴史に即した序列が存在し、その序列は婚姻関係に大きな影響をおよぼす。婚姻関係によって派閥が生じ、村の行政者である村長と村議会議員を選出する村議会議員選挙は、有力ダールの権力のせめぎあいの場となっている。

F村における村議会制の特徴は、近年まで根強く残っていたマパイ・労働党の影響である。1970年代までイスラエル与党の座にあったマパイ・労働党は、ガリラヤ地方農村部のアラブ人への影響力を強めるために、各地で地方行政の要である有力ダールに接近した。ことにメルキト派信徒は、イスラエル建国当初のメルキト派ガリラヤ司教がマパイ党員であったため、その影響を他の宗教・宗派信徒よりも強く受けることとなった。マパイ・労働党の影響力は比例代表制である国会議員選挙でより濃厚であり、アラブ人の政党が出現しても、F村村民は村の有力者がマパイ・労働党員であるがために、マパイ・労働党へ投票し続けた。近年、メルキト派信徒の国会議員の出現により、ようやくその傾向は薄れつつある。

このような投票傾向からは、F村の生活全般における、ダールへの帰属意識と出身地であるF村への帰属意識、さらにはメルキト派カトリック信徒としての自覚の影響力の強さがうかがえる。この3つの帰属意識に基づき、彼らは身内と他者の境界線をもうけ、帰属意識はダールの一員、F村出身者といったアイデンティティを構成してゆく。しかしながら、メルキト派信徒しか存在しない村落から都市へと移住し、多種多様な他者と対峙したとき、彼らの身内概念は、拡大することが考えられる。アイデンティティの様態も、また変化するであろう。