総研大 文化科学研究

論文要旨

第22号(2026)

東京都港区我善坊谷遺跡の出土木材の
年代測定および産地推定

総合研究大学院大学 先端学術院 日本歴史研究コース 林   忻

キーワード:

近世、江戸、我善坊谷遺跡、胴木、樹種同定、年輪年代法、酸素同位体比年輪年代法、産地推定

近世の大都市「江戸」の営みは、多様な資源と高度に発達した物流ネットワークと支えられていた。なかでも木材は、インフラや建築物、生活用品など、人々の暮らしに不可欠な資源であった。文献史料に基づく研究では、土木工事や災害の頻発による木材需要の増大と、それが森林資源や林政に及ぼした影響が論じられてきた。考古植物学による遺跡出土木材の調査では、17世紀前半まで天然林由来のヒノキ科材が主体であったのに対し、18世紀以降にはマツやクリといった地廻り材の利用が増加し、木材利用に大きな転換期が存在したことが示されている。こうした変化は、森林資源の枯渇状況や各藩の政策、さらには災害復興といった社会的要因を反映していた。

しかし、従来の研究は、出土木材の年代の細分や産地の特定が不十分であり、木材利用の転換期や流通の実態については推測の域を出なかった。また、江戸の土木建築材は樹種選択性が低く、多様な供給源を持つため、スギやヒノキなど一部の樹種にしか適用できない年輪幅に基づく年輪年代法だけでは年代決定と産地推定に限界があった。

本研究では日本で新たに実用化された「酸素同位体比年輪年代法」を用いることで、樹種に捉われない年代決定・産地推定に取り組んだ。港区我善坊谷遺跡門前町屋の胴木に樹種同定および酸素同位体比年輪年代法を適用し、①転用材の可能性②アスナロがヒノキアスナロである可能性を検討した。それらの結果をもとに、近世江戸における町人地における木材の利用を明らかにすることを目的とした。

分析の結果、対象とした胴木の年代は18世紀中葉の下水溝の築造年代より古く、門前町屋の存続期と整合した。また、16世紀後葉~17世紀前葉のアスナロ材は北日本産のヒノキアスナロの可能性が高く、中央日本版標準年輪曲線と高い相関を示した樹種は17世紀中葉~18世紀初頭のもので、転用材である可能性が高い。この結果は、既往研究で指摘されてきた木材利用の時代的特徴に新たな科学的裏付けを与えた。本研究によって、江戸期の木材流通解明に向けた、酸素同位体比年輪年代法による出土木材の年代決定・産地推定の新たな研究モデルが提示された。