総研大 文化科学研究

論文要旨

『京極大殿御集』の構成と成立に関する試論

文化科学研究科・日本文学研究専攻 高野瀬 惠子

キーワード:

京極大殿御集、藤原師実、令子内親王、摂津集、経信集、散木奇歌集

冷泉家時雨亭叢書第七十巻に収められた『京極大殿御集』は、全三十七首、永仁五(一二九七)年の奥書を有する所謂承空本の一つであり、これまで断簡の形で伝わっていた藤原師実の家集の完本と見られる。この集の内容については、久保木哲夫氏や花上和広氏によって、伝俊頼筆本の断簡研究の時点から、歌の詠作年次や登場人物の研究が進められてきており、編年的配列の他撰家集であることなども明らかになっていた。しかし、従来の両氏の論考や花上氏の最近の論考では、完本が出現したことによってあらわになったこの集の構成上の問題点と、その背後にある成立事情などについては、考察が必ずしも十分ではない。そこで、師実の養女でもあった令子内親王とその周辺の文芸活動を研究する者の視点から、久保木・花上両氏の研究を踏まえつつも、『京極大殿御集』の構成と成立に関する私見を提示したい。

この集は、天喜四(一○五六)年頃の師実十五・六歳の詠作から、康和元(一○九九)年四月までの詠作を収めているが、詠作年次が概ね特定出来る歌が多く、歌を編年的に配して師実の生涯を辿るような構成になっている。しかし、細かな所では、詞書の詠作年次が史実によって推定される日時とは異なる箇所や、必ずしも詠作の順ではない配列の例がいくつも見られる。これは詠作時から編纂までの時間の隔たりが比較的大きいことから、正確を期しても限度があったことや、編纂資料の性格を物語っていると思われる。更に、最後の五首(33番〜37番)は、康和元年の詠である32番歌とは詠作時期が異なり、明らかに古い歌である。これは32番歌までの部分が、細部に問題はあるものの、編年性にこだわりが見られ、かなり注意深く歌が配列されていることと大いに矛盾する。そのことから、32番歌までで集が一旦成立した後に、五首が増補されたのではないかと考えられる。この増補されたと思われる歌の詠作年次は、33番歌が康平三年、34・35番の摂津と師実の贈答歌は寛治六年七月であり、残る36・37番の師実と経信の贈答歌も(久保木哲夫氏による承保二年頃との見解があるが)寛治年間後半から嘉保元年頃と見ることも可能ではないかと思われる。増補が行われたのは、34・35番歌の詞書から見て、長承三(一一三四)年三月以後と推測される。

また、この集は歌会などの公的な場における歌が非常に多く、私的な贈答歌がほとんど見られない。集の歌が勅撰集など他集に見られる割合が高く、同時の詠作と思われる他の人物の歌も更に高い割合で存している。この事実と、編年性を重視しつつも史実との微妙なズレが見られる詞書や配列の問題とを考え合わせてみると、この集の編纂資料が、歌会の記録類や、或いは歌会記録から様々な目的で書写された断片的な資料類であった可能性も浮上する。

『京極大殿御集』は平安期の摂関の家集に多い他撰歌集であるとともに、編年的配列の集として同時代の自撰家集である『摂津集』とも共通点を持ち、小さな集ではあるが、その成立の時代である院政前期の和歌の状況についても、興味深い問題点を提供していると思われる。