総研大 文化科学研究

論文要旨

洛中洛外図屏風「東博模本」の成立事情
および「朝倉本」に関する考察

文化科学研究科・日本歴史研究専攻教員 小島 道裕

キーワード:

洛中洛外図屏風、東博模本、歴博甲本、京都、室町幕府、朝倉氏、細川氏、三好氏、狩野元信、土佐光信

洛中洛外図屏風の内、一六世紀に作られ、室町幕府が描かれている「初期洛中洛外図屏風」は、歴博甲本、東博模本、上杉本、歴博乙本の四本が存在する。またこの他に、永正三年(一五〇六)に土佐光信が越前朝倉氏のために制作した屏風があったことが記録上知られている。

本稿では、この内いまだ制作事情が明らかでなかった東博模本について仮説を提示し、朝倉氏が作らせた屏風(「朝倉本」と仮称)についても、それがどのような内容のものであったかを、現存する屏風から推測した。

東博模本については、描かれているのは細川晴元政権下の京都であるが、晴元は阿波細川家の出身であり、政権を支えた三好氏も阿波の国人である。そして、描かれた独自の内容を分析すると、政権内の阿波関係者に関わる図像が多い。このことから、東博模本は阿波で京都の絵を見るために制作され、折しも京都を規範として造られつつあった阿波の守護所勝瑞に送られたのではないかと推測した。制作年代についても検討し、天文法華の乱で破壊された寺院が復興途中の様相を描いていることや、描かれた武家屋敷の年代などから、天文一一年(一五四二)一一月から同一四年(一五四五)夏までの間に絞り込んだ。

朝倉氏が発注した「朝倉本」の内容については、「一双に京中を画」いた「新図」であるという以上の情報はないが、歴博甲本以下のこれに続く洛中洛外図屏風を、同じ京都を対象とし、それをアップデートした一種の写本とみなして分析することで、そこに描かれていたものをある程度想定することができる。

洛中洛外図屏風の前提として存在したのは、京都の年中行事を月順に描いた月次祭礼図屏風であり、これを京都の地理に当てはめて洛中洛外図屏風が成立したと見られるが、その過程において、「斯波邸における鶏合」のように、両者の要素が合体した図像も生み出された。

歴博甲本には、細川一族の栄華という中心主題からは必然性のない画像が見られるが、その多くは先行する「朝倉本」に存在していたものが残されたと考えることができる。このようにして、現存諸本の比較検討から、「朝倉本」の内容をおよそ推測することができ、それは現存の歴博甲本に比較的近いが、おそらく左隻に「花の御所」を描くものである。この「朝倉本」を前提として考えることによって、現存諸本に描かれた事物の意味、すなわちなぜそれが描かれているのかをより的確に捉えることも可能になってくる。