総研大 文化科学研究

論文要旨

藤原顕季の和歌と今様

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻 大野 順子

キーワード:

藤原顕季、今様、梁塵秘抄、院政期和歌、白河院

藤原顕季(一○五五〜一一二三)は、和歌の家である六条藤家の祖であることや、人麿影供を創始した人物であることで著名である。また、『郁芳門院根合』や『堀河百首』などに出詠し、永久年間以降はいくつもの歌合で判者をつとめたことなどからも、この期の歌壇の重鎮であったことがわかる。

このように歌人として重きをなす位置にあった一方で、母親の親子が白河院の乳母であった関係から、顕季は院の近臣としての一面も持っている。

当時、院北面ではさまざまな芸能が盛んに行われており、そのひとつが今様であった。記録の上で、顕季自身が今様を歌ったかどうかまでは確認できないが、『梁塵秘抄口伝集』の今様談義の場にその名が見えることなどから、少なくともパトロン的な立場で遊女や今様と関わっていたと推測できる。井上宗雄氏に、顕季は和歌以外の「諸芸に興味を有して或る域にまで達し、随時子孫に伝えることに関心があったらしい」との指摘がすでにある。そうであるならば、顕季は、院北面において盛りあがりを見せていた今様についても、子孫に伝えるために一定以上の知識を持ちあわせていたと考えるのが自然であろう。

顕季の和歌を丹念に見ていくと、顕季が和歌に用いた表現・発想には今様との近接が見られる他、語の用法において歌謡的側面が見られることが確認できた。顕季の和歌といえば、これまでは『万葉集』に特有の語彙を取り入れることが盛んであるといった、万葉歌との繋がりを強調するような指摘が多かったのだが、一方で、今様のように当時の流行の最先端とも言うべきものをも取り入れてもいたということは注目されてよいのではなかろうか。しかし、こういった和歌と今様との交流は顕季のみに見られるものではなく、顕季に近しい位置にいる歌人らにも同様の傾向が認められた。そしてこれは、今様好きが多数存在した白河院周辺の歌人全般に指摘できる傾向でもあった。

このような傾向は、前代までは今様が和歌を一方的に取り入れてることに終始していたのに対し、貴族自身が歌い手となったことで流行歌謡でしかなかった今様が教養の周辺領域に定位され、やがて和歌の発想の源泉となりうるものとなっていったため起こったと思われる。これを証明するように、同様の傾向は新古今歌人らにまで引き継がれていったのだが、本稿はその端緒とも言える時代の実作の有り様を顕季歌を中心に据えて確認したものである。