総研大 文化科学研究

論文要旨

6・7世紀における相模地域の動態

―三ノ宮古墳群を手掛かりとして―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻 柏木 善治

キーワード:

相模、三ノ宮古墳群、前方後円墳、中継中核地域、地域首長、朝鮮半島情勢

相模の6世紀後半〜7世紀代に展開する古墳・横穴墓をみていくことから、地域内の状況を整理し、地域の担った役割について理解の一端を提示した。

相模の三ノ宮地域には、登尾山古墳や埒免古墳など豊富な副葬品を持つ古墳が知られており、その豊富さと横穴式石室の様相や墳丘の規模などを鑑みて、いわゆる相武国造の奥津城とも考えられてきた地域である。この古墳や横穴墓の集中する地について、三ノ宮古墳群と呼称し、その地理的な広がりについては延喜式内社である三ノ宮比々多神社を中心におよそ直径2.5km四方の範囲として提示した。また、登尾山古墳の現地表観察などから、前方後円墳としての存在も推察した。

相模の地では近年の調査成果により、当該時期の前方後円墳が多く認められることとなった。それらの抽出とともに、三ノ宮古墳群が展開する相武国造域と隣接する師長国造域について、古墳の立地や群内の構成などを比較した。そこからは一つの古墳群を中心として主要墓域が限られるものと、河川流域に応じて立地を違えていくものの二つのパターンなどが確認された。

副葬品の優劣について、高塚墳と横穴墓が同じ古墳群内に展開する場合は、高塚墳の首長墓から出土する副葬品の優位は顕著で、やや時期が遅れると横穴墓の被葬者がそれら副葬品を採用していく状況をみた。また、横穴墓のみが卓越する地域では、副葬品としての優品採用は高塚墳による首長墓と同時期に行なわれたとし、その役割としては朝鮮半島情勢などを受けた国家の運営にかかる兵站等戦闘物資及び生活物資輸送拠点における中継基地としての、中継中核地域という位置付けをした。

前方後円墳が古墳時代中期の築造中断期間を経て、6世紀後半〜7世紀初頭に期間を限定しつつ再度盛行と終焉を迎えることをみて、それは一世代が一基を築造するという様相を示すとした。この現象は地域主導の内在的な要因によるものではなく、外在的な要因に基づくとした。その要因としては、朝鮮半島情勢などのアジア的規模の政変の煽りを受けた事象として捉え、中央としては大和政権の一員であることの確認行為、地方としては前方後円墳という墳形表示により大和政権の後ろ盾という権威表示による地方運営という、両者にとっての国家運営・地方運営の思惑が一致した結果として捉えた。