総研大 文化科学研究

論文要旨

「源氏千種香」の依拠本を探る

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻 武居 雅子

キーワード:

源氏千種香、源氏小鏡、梗概書、連歌、組香

「源氏千種香」は、元文年間に江戸で菊岡沾凉によりとりまとめられ、成立したと考えられる香の伝書『香道蘭之園』の八・九巻に掲載されている組香(香りを聞き当てる香遊び)である。源氏物語五十四帖のうち「桐壺」「夢浮橋」を除いた五十二帖を題材とし、他の香の伝書や組香集には見られない珍しい組香である。

香道実技の場において、「源氏千種香」は『源氏物語』に基づいて考案された文学性豊かな組香と考えられてきたが、内容を精査してみると、原典の『源氏物語』と明らかに異なる事象が存在している。物語には見られない和歌が組香の証歌とされていたり、物語にはない言葉が聞きの名目に使われていたり、巻の順序が違っていたり、重要な場面での登場人物に欠落があったりと、必ずしも忠実な物語の再現はなされていないのである。しかし、組香考案者やその後継者によって、安易な物語の内容改編が行われたとは考えにくい。

香道の歴史を顧みると、その創成に関わった人に連歌の関係者が多いことが注意される。一方、連歌の隆盛にともない、源氏物語の言葉(源氏寄合)を用いた句が多く詠まれるに至り、その教則本として『源氏物語』の梗概書が機能した事実が知られている。これらのことから、「源氏千種香」も原典の物語を直接の典拠としたのでなく、いずれかの梗概書を経て考案されたものなのではないか、という考えに至った。

そこで、巻順の異同を手がかりに梗概書を調査したところ、中世から近世にかけて最も流布したといわれる『源氏小鏡』のそれとほぼ同じであることを確認した。さらに本稿で取り上げた「箒木香」の証歌、「玉葛香」の衣配り、「梅枝香」の薫物合、「若菜香下」女楽と、『源氏小鏡』第一系統(古本系)第一類京都大学本(伝持明院基春筆)の記述に、共通点があることを見出した。本稿では、これらの事象を『源氏小鏡』諸本の記述と比較し、精査検証しながら、『源氏小鏡』第一系統(古本系)第一類京都大学本系統が「源氏千種香」の依拠本である可能性を探りたいと考える。もしも『源氏小鏡』が「源氏千種香」の典拠として機能したとすれば、それは香という知的遊戯世界での『源氏小鏡』の享受であり、梗概書が源氏文化の世俗化への一役を担った例証といえるのではないだろうか。