総研大 文化科学研究

論文要旨

茨城県太平洋岸における中世の海村について

―製塩主体の海村の一類型―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻 永越 信吾

キーワード:

海村、製塩、集落、複数生業、埋葬地

本稿は、茨城県太平洋岸の製塩を主要な生業とする中世の海村について考古学の視点から考察するものである。海村は立地環境や利用可能な資源から様々な様相が想定されるが、ここでは茨城県中部の太平洋岸の砂丘上に立地する3つの遺跡について検討した。

釜屋、鹹水槽などの製塩遺構は海岸に近い場所にあり、海岸付近での塩田と一体となった製塩の場が考えられた。集落跡が確認できる村松白根遺跡では、製塩が行われていた場所よりもやや内陸側に建物が建てられた。建物跡では釜屋内で海水を煮詰めた土釜の部材である耳金、吊金が出土していることから、製塩に従事した人々が暮らしたことが確認できた。

村松白根遺跡の集落の期間は15世紀後半~17世紀前半で、当初は建物が散在していたものが、15世紀末~16世紀前半になると複数の建物に纏まる様相が看取された。この建物の棟数が増えた背景として製塩従事者の増加と、複数の集団が組織されたことを考えた。16世紀後半には、建物跡の方向がほぼ同じとなり、建物が整然と配置された形態となる。これに土手状の区画を伴う。そうした計画的な建物配置は17世紀前半まで続いた。各時期を通して、建物は1棟ないし主屋と付属建物から成る2棟構成であり、これが1家族の居住形態と考えた。

製塩遺構は集落の形成された時期から衰退期まで同一個所で変遷しており、製塩に必要な海水を得やすい海岸に近い所で製塩が行われていたことが分かる。

集落の居住者を埋葬した土壙墓もみられ、それらは群を成している。被葬者は乳幼児から老人まで確認でき、家族を埋葬した墓であることが分かる。副葬品には突出した優品はなく、集落居住者の階層は比較的均一であったと考えられる。

沢田遺跡、長砂渚遺跡でも釜屋や鹹水槽といった製塩遺構、土壙墓がみられ、集落跡は未確認であるが、村松白根遺跡と同様に製塩を主体とした海村と捉えることができる。

生業は製塩を主体とするが、集落内では骨角加工、鍛冶、漁撈、農耕等が副業的に行われていた。こうした複数の生業が海村の特徴の1つに挙げられる。村が単一生業のみで成り立つものではなかったことを示すものである。本稿では、砂浜沿いの製塩主体の海村について検討したが、このような村でも、複数の生業が確認でき、多様な生業の上に村が維持されていったことが考えられる。これを製塩主体の中世海村の一類型として提示したい。