総研大 文化科学研究

論文要旨

説経・古浄瑠璃を題材とした絵巻・絵入り写本制作の一様相

―個人蔵『しゆつせ物語』(さんせう太夫)を例に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  粂  汐里

キーワード:

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説経、古浄瑠璃は、近松門左衛門以前の、日本の中世末期、近世初期に盛んであった語り物文芸である。従来の文学史、芸能史において、説経・古浄瑠璃のテキスト研究は、近世初期の古活字版や万治寛文以降の半紙本など、版本を中心に進められてきた。しかし、説経・古浄瑠璃は、絵巻、絵入り写本、挿絵の多い草子本などのかたちでも数多く伝わっている。これらは本文研究において正本と同等の有益な資料群であると考えられ、いまは現存しない正本の復元など、多くの可能性を秘めている。にもかかわらず、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本をめぐる総括的研究は、同時代の芸能―能、狂言、幸若舞曲―に比し、いまだ十分とはいえない。本稿では、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本の重要性を示す一事例として個人蔵『しゆつせ物語』を取り上げ、その特徴と意義を報告する。

『しゆつせ物語』は森鴎外の著作で知られる『さんせう太夫』の一伝本で、未紹介のテキストである。装丁に着目すると、初期説経正本と同じ三冊本形態である点、説経のテキストとしては珍しい列帖装の豪華絵入り写本である点が注意される。本文もまた、初期のテキストである寛永末年頃刊行の天下一説経与七郎正本、明暦二(一六五六)年刊行の佐渡七太夫正本と同時代の、古態をとどめたものである。

しかし個人蔵本は、これら同時代のテキストにはない特徴を有している。まず挿絵をみると、豪華な絵入り写本という形態にふさわしく祝言性を強調し、残忍な描写を回避する傾向がある。これは、説経や古浄瑠璃を題材とした絵巻・絵入り写本の制作意図を把握する貴重な例である。次に諸本を比較してみると、個人蔵本には、従来知られてきた与七郎本系統とは異なる、独自本文が確認できる。

また物語にとって重要な場面である天王寺が、個人蔵本では北野天満宮に置き換えられている。この点に着目し、中世末、近世初期に北野天満宮の境内が芸能者の参集する場であったという先行論をふまえつつ、『しゆつせ物語』に当時の北野社の繁栄が投影されていることを指摘した。