総研大 文化科学研究

論文要旨

桓武天皇の皇統意識

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  龔   婷

キーワード:

桓武天皇、辛酉革命、長岡遷都、郊祀、直系継承

本稿では、桓武天皇即位前後の政治動向、及び即位後に行われた長岡遷都・郊祀などを手かがりにして桓武天皇の皇統意識を再検討する。神護景雲四(七七〇)年八月、称徳天皇の遺宣によって天智の孫である光仁(白壁王)が即位し、皇位継承の嫡流となった。奈良時代後半における皇位継承の闘争によって多くの有力後継者は皇位継承の序列から排除され、生き残ったのは高齢の天武傍系の皇族及び天智系の二世王のみである。光仁が選ばれた理由は、聖武の血を引く井上内親王との間に生まれた他戸親王の皇位継承によって、聖武系の血統を継続させる可能性が見込まれたからである。また、志貴皇子(光仁の父)は「吉野の盟約」のメンバーである重要性も他の研究で明らかになった。しかし光仁が即位して間もなく井上・他戸母子が廃され、三十五歳の桓武(山部)は皇太子となった。

桓武は光仁の長男であり、称徳朝では一般官僚として出世した。桓武の即位にとって、母方の渡来系血統は大きなマイナス要素であり、後の桓武朝の政治を揺るがす要因の一つでもある。桓武の即位後、天皇としての正統性を主張するため、中国の「辛酉革命・甲子革令」に基づいて年号を「天応」に改元した。この間、新京長岡に遷都し、延暦四年に中国風の郊祀を倣った天神祭祀を行い、皇位継承の正統性を強化した。一方、桓武の即位に不満を抱く人々が謀反や魘魅などのクーデターを起こし、有力な皇族を含めて多数の人が刑罰を受け、さらに種継の暗殺事件によって、桓武の同母弟である早良親王や甥の五百枝王も皇統継承の候補者から外れた。政治事件における一連の粛清の結果、桓武から息子の安殿親王への直系継承となる条件が揃った。

光仁の改葬・延暦年間の山陵祭祀における天智・志貴・光仁への追慕や弟の早良親王の排除・安殿の立太子など、桓武は直系による皇統継承を強く意識したと見られる。延暦六年に行った郊祀は、光仁を配主としたことから、光仁―桓武―安殿(延暦六年元服)までの父方血統のみで構成する新たな皇位継承の秩序を完成したと見られる。