総研大 文化科学研究

論文要旨

第16号(2020)

八世紀における境界認識

―大和国を中心に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  久葉 智代

キーワード:

八世紀、境界、古代道路、境界祭祀、空間認識

本論文では、八世紀における大和国周辺のどのような場所が境界とされていたのか、そしてその境界がどのように認識されていたのかを、自然と人工の両面から検討する。主に以下の二点に着目する。

一つ目は、自然地形と交通路との関係である。『日本書紀』の改新詔にみられる畿内堺のように、古代における境界は山や川を一つの区切りとしている。その境界とは、現代のように明確な線を引いたものではなく、ある地点から見た各方角の一地点を代表させたものである。大和国に目を向けてみると、『万葉集』では、北・南・西の各方角において、奈良山・真土山・生駒山・龍田山というそれぞれの山が境界として認識されている。これは、いずれも平城京からの交通路上に位置する山である。東の境界のみはほとんど現れないが、平城京から東へ向かうには、直接東方の山を越えるのではなく、一旦南下する必要があり、交通路を基にした境界認識を持っていた当時の人々にとっては、東へ向かうという体感が乏しかったことがその一因であると考える。

二つ目は、祭祀と境界との関係である。境界で行われる祭祀として、「手向け」がある。交通路の主要な地点(主に坂や峠)において安全を祈る行為であるが、前述した大和国周辺の山が手向けを行う場となっていることが『万葉集』からわかる。 また、都城や畿内の境界において行われる疫神祭祀について、「疫神が交通路を通じて入ってくる」という指摘は従来からなされている。加えて、『日本書紀』の記事の中で、大和国の周辺で祭祀を行ったとされる場が、交通路上で境界とされる山々と一致している。祭祀における境界も、交通路が基になっていることがわかる。

ある地点を境界として認識するということは、単なる景物に境界性を与えるのではなく、自らが交通路を利用して移動する際の状況を投影したものであった。この時代の境界とは、現代のように俯瞰で正確な地形を捉え、明確な線を引くものではなく、曖昧な幅を持ったものであったといえる。そのような境界に囲まれた空間の把握についても、明確な領域の意識があったのではなく、自身の経験と認知によるものであったと推測される。