総研大 文化科学研究

論文要旨

第16号(2020)

源顕房の詠歌

―集成と考証―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  花上 和広

キーワード:

源顕房、権門歌人、白河院政期、天皇家、摂関家

源顕房は、土御門右大臣源師房二男、母は道長女尊子。右大臣従一位に至る。同母兄に左大臣俊房、同母妹に藤原師実室麗子がいる。娘賢子は師実の養女となり、その後、白河天皇の中宮となる。賢子は媞子内親王・善仁親王(堀河天皇)らを儲け、顕房は堀河天皇の外戚となる。

この時代は、天皇家と摂関家は対立していることを前提に和歌事象が捉えられているが、天皇家や摂関家などは互いに血縁関係があり、対立構造だけでなく融和的構造という方向からも理解を進めていく必要がある。

本稿は、顕房の詠んだ和歌二十三首について、歌の集成と考証作業を通して、歌人としての顕房の活動を論ずるための基礎資料を示し、白河朝から白河院政期における権門歌人としての顕房の和歌史上における位置について考察したものである。

以下、知り得たことを整理し、権門歌人顕房のありようを示す。

まず、初期の代作の問題があげられる。顕房一五歳の歌合詠は侍従乳母の代作というが、同年に催された他の歌合においても、同じように代作してもらった可能性がある。また、郁芳門院根合では、その作者名表記に関して、顕房の代作の問題があげられる。顕房が歌合などのハレの場で歌を詠むことは権門歌人として果たされるべきことであった。若い時には代作をしてもらい、長じては代作をするということをした。

次に顕房は、若い時から晩年に至るまで歌合に深く関わってきた。特に承暦二年四月廿八日内裏歌合や寛治七年五月五日郁芳門院根合において判者を務めたことは、権門歌人として重要な仕事であった。

三つ目は顕房と経信の関係についてである。二人は中宮馨子内親王の中宮職の役職において、顕房は中宮大夫、経信は中宮権大夫という身分差のある関係であった。また『大納言経信集』には、馨子内親王が斎院退下後は師房第に住まい、そこで遊びが催された記事等より、経信と顕房の近しい関係が見出される。顕房と経信は多方面でいろいろな関係が見出される。

最後に顕房詠が『後拾遺集』と『金葉集』にそれぞれ四首ずつとられていることは、彼が当代歌人として評価されたことの証ともなろうが、それらの撰集を命じた白河院との特別な関係(顕房は院の舅で堀河天皇の外祖父)も影響しているのであろう。

この時期の歌壇史における天皇家と摂関家は、一般的に対立構造が指摘されている面もあるけれども、顕房の和歌活動を通してみると、顕房も摂関家の一員であるが天皇家とも極めて融和的な関係が保たれてきた。権門歌人顕房の特徴がそうしたところにもあったといえよう。