総研大 文化科学研究

論文要旨

第18号(2022)

尾崎翠のテクストにおけるチャップリン表象

―「木犀」を中心に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  小野 光絵

キーワード:

尾崎翠、チャップリン、映画、影、生身の人間を離れた恋

尾崎翠(一八九六―一九七一)のテクストでは、小説やエッセイ、詩や座談録といったジャンルを横断する形で、「チヤアリイ」ことチャールズ・チャップリンへの思慕というテーマが繰り返し表象されている。しかし、これらは従来の研究ではほとんど看過されており、充分な掘り下げがなされてこなかった。本稿は、短篇小説「木犀」(一九二九年)を中心に、その重要性に光を当てるものである。

映画をめぐる尾崎の複数のエッセイの中で、「影」というキーワードが繰り返し登場する。「影」という言葉を用いて表象されているのは、映画などの媒体を通すことによって生じる一種の異世界の魅力であり、なおかつ、その中で生身の人間とは異なる異世界の存在として見えてくる人物像への強い関心である。「影の世界」に触れ、没入することによって自身の「心のはたらき方までも」が根本から影響を受けるという、単なる娯楽としての消費に留まらない映画鑑賞のあり方が語られる。また、チャップリンについても生身の俳優としてではなく、映画の幕の上の「影の男性」としての魅力が見出されている。以上を踏まえた上で、「木犀」の「私」の恋のあり方について考察を加えた。

「木犀」の語り手である「私」は、学生時代の友人「N氏」からのプロポーズを退けたことで「淋しさ」を感じるが、映画館で観た「ゴオルドラツシユ」の「チヤアリイ」に対する好意を語る時にはじめて「恋してゐる」「愛してゐる」という言葉が用いられる。

さらに、「私」が強く関心を示しているのは、億万長者となり恋人を得るハッピーエンドを迎えた成功者としての「チヤアリイ」ではなく、むしろその途上における「孤独な彷徨者」に対してである。その上で、彼の姿に「淋しさ」を見出して共鳴を示す「私」自身もまた、「孤独な彷徨者」の性質をそなえた人物であることを指摘した。

また、映画が上映終了となった後、「私」は眼前にありありと「チヤアリイ」を思い描き、幻想上の会話を交わしている。ここに表象されるイメージは、映画「ゴオルドラツシユ」のチャップリンのイメージを借用・変形することによって表現された「私」の分身であり、「私」の〈内なる男性像〉の具現化であると、後続の尾崎翠テクストとのテーマの連続性に言及しつつ結論づける。