総研大 文化科学研究

論文要旨

第20号(2024)

女性の身体と母乳哺育をめぐる権力作用

―ベネズエラ都市部の低所得層女性を対象とした
母乳哺育推進の現場を事例として

総合研究大学院大学 文化科学研究科 比較文化学専攻 川又 幸恵

キーワード:

ベネズエラ、母乳哺育、母乳哺育推進、女性の身体、権力

母乳哺育推進制度・政策が拡充されてきたベネズエラにおいて、母乳哺育推進は、主に公衆衛生の分野で扱われるテーマである。母乳哺育推進の文脈における先行研究では、母乳哺育を妨げる原因の究明・解決に焦点が当てられる。しかし、母乳哺育を実践する女性の身体は、その前提となる社会規範や社会通念などの社会的な力の影響を受ける。それにも関わらず、先行研究の多くでは、医療的知識の習得などの母乳哺育推進に役立つ力関係以外は排除すべきものとして認識されており、考慮されることも難しい。

そこで本稿は、ベネズエラ都市部における低所得層女性による母乳哺育を対象とし、彼女たちの身体に作用する力を権力と捉える。その上で、母乳哺育実践形成のプロセスに関わる女性の身体と母乳哺育をめぐる権力関係がどのように生じ、どのような関わり方をしているのか明らかにする。これにより、母乳哺育実践者である女性の意思決定を構成する要素をめぐる新たな視座を提示することを試みる。

本稿では第一に、ベネズエラにおける女性の身体と母乳哺育の捉え方について、文化的価値観や社会構造から生まれる権力に焦点を当てて考察した。その結果、家父長制に基づく「男性に従属する身体」である女性という規範と、それに抵抗するフェミニズムによる啓発という、異なる権力が同時に女性の身体に作用していた。また、彼女たちは「男性に従属する身体」という規範を内面化し、行為において反覆することで、自らの身体の位置づけを強化していることが明らかになった。

第二に、政府が母乳哺育政策を実施する際に使用する言説を整理した。その結果、「子の健康に最適な栄養源としての母乳」、「母子の権利としての母乳哺育」そして「食料安全保障の要としての母乳哺育」の3つの言説が存在した。これらの言説は、その時々の政治的社会的背景に影響を受け、強調の程度が変化していた。

第三に、母乳哺育推進の現場での参与観察および母乳哺育推進者へのインタビュー調査から、母乳哺育推進の現場に存在する権力について検討した。その結果、先行研究で着目される医療モデル言説、母性中心主義モデル言説の他に、食料生産者としての女性の身体を強調する言説が女性の身体に影響を与えていることが明らかになった。これらは語られる場所や語る人物の政治的宗教的背景、知識の質、そして経験によって多元的な形をとっていた。

以上より、母乳哺育における女性の意思決定を構成する要素として、女性の身体に作用する権力の多元性および複雑性に焦点を当てていくことの重要性を提示することができた。