国内外フィールドワーク等派遣事業 研究成果レポート





澤田晴美(国際日本研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【c.国内フィールドワーク派遣事業】
  明治期の大阪の演劇雑誌と近世浄瑠璃正本の調査
2.実施場所
  大阪府立中之島図書館 天理図書館 関西大学図書館
3.実施期日
  平成18年12月8日(金) から 平成18年12月15日(金)
4.事業の概要
  〈近代大阪の演劇雑誌の調査〉
  近代に大阪で刊行された演劇雑誌や新聞の劇評欄についての調査を行った。東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)や早稲田大学演劇博物館に所蔵されていない資料を中心に閲覧を行った。大阪の演劇雑誌で特徴的なのは、大正13年、15年に創刊された雑誌(『劇と其他』『演劇・映画』『劇』)である。刊行の辞の多くは、大正12年の関東大震災に言及されている。
  また、今回の調査では、近世期に役者評判記の刊行を通して長らく劇の批評を担っていた上方が、近代に入って東京中心の劇の批評に移行した時、近代の関西の劇評がどのような状況となったかを把握することが目的であった。明治期のごく初期の劇評は、中之島図書館には所蔵資料が少なかったが、近代の新聞に影響を与えた幕末の一枚摺の資料については屈指の蔵書数である『保古貼』の調査を行った。一枚摺の中で特に演劇に関係するもので役者の批評に言及するものを調査した。
〈近世浄瑠璃正本の調査〉
  近世浄瑠璃正本については、『信州姨拾山』について調査を行った。本書の諸本は大きく初版、再版、幕末期再版の三種に分かれる。
  初版系の大阪府立中之島図書館蔵本(A種)は既に調査済みであったが、同時期に刊行された大谷図書館蔵本との異同が確認されたため、やはり同時期に刊行された天理図書館蔵本ともあわせて異同を確認した。調査の結果、大阪府立中之島図書館蔵本(A種)と大谷図書館蔵本・天理図書館蔵本との異同箇所(15丁裏・16丁表)は、大阪府立中之島図書館蔵本(A種)の虫損によるものであることが明らかとなった。その他の異同箇所の詳細な比較も、原本の板面の状況から、三カ所に所蔵されている本はおおむね同板と断じてよいことが明らかとなった。
  しかしながら、三本のうち、天理図書館蔵本にのみ異同にある箇所(21丁裏)については、その根拠を留保せざるを得なかった。また、再版系の関西大学図書館蔵本は、留保箇所について、天理図書館蔵本と同じ板と判断された。
  さらに、幕末期再版系の中之島図書館蔵本(B種)とも比較を行った。覆刻箇所が2丁ほど確認されたが、その他についてはほぼ初版、再版系と同板と確認された。
  浄瑠璃正本の刊行時期は、奥付の太夫名、板元の連名から判断するが、一作品につき、90枚以上の板木を使用するため、全面的な改訂の場合もあるが、多くは部分的な改編、埋木があることが、先行研究で指摘されている。『信州姨拾山』の場合も、異同箇所については、部分的な板木の修正であることがわかった。
  あわせて、閲覧した各書について、蔵書印などについても調査を行い、天理図書館蔵本には貸本屋系の蔵書印が確認され、中之島図書館蔵本(B種)には饗庭篁村と朝日新聞創設者の村山龍平の蔵書印が確認された。

5.本事業の実施によって得られた成果
  〈近代大阪の演劇雑誌の調査〉
 私は、近世期に役者評判記の刊行を通して長らく劇の批評を担っていた上方が、近代に入って東京中心の劇の批評に移行した時、近代の関西の劇評がどのような状況となったかについて博士論文で言及するために、資料調査を行っている。今回は中之島図書館に所蔵する関連資料の所在調査を行ったが、明治10年までの資料は中之島図書館にのみ所蔵する資料は少なく、十分な結果を得ることはできなかった。今後、明治新聞雑誌文庫や演劇博物館所蔵資料とあわせて分析を行う必要があることが明らかとなった。尚、大正13年、15年に大阪で創刊された雑誌には、大正12年の関東大震災で壊滅的な状況を受けた東京の演劇界から多くの役者が関西での興行を行ったこと、関東大震災の衝撃が文化の転換点であるとの言及もみられている。これまで、文芸の潮流として、明治維新、明治20年代、日露戦争、第二次世界大戦などの区切りに注目されてきたが、関東大震災も転換点として注目すべきであることを改めて実感させるもので、今後の課題となった。
 また、明治初期の小新聞に影響を与えたとされる、幕末に大坂で刊行された一枚摺の資料の中で、特に、役者の批評に関係するものを閲覧した。近世期の劇評の批評である役者評判記は、「位付け」「見立て」「役者評」が中心要素であるが、役者評判記が固定化した江戸中期以降においては、一枚摺が速報性においても、様式にしばられない自由さにおいても、書物としての役者評判記にかわる資料として重要であるとの指摘がなされていた。しかし、今回改めて一枚摺を分析してみると、書物に比べて情報量の少ない一枚摺は「位付け」「見立て」の要素のみで、「役者評」に関しては十分な情報を提供し得てないことが明らかであった。江戸の一枚摺は役者似顔絵などの要素も加わるが、上方では「見立て」に肥大していく様子が如実にわかった。上方にしても、江戸にしても、近世期においては、役者の詳細な技芸の批評、作品の批評の方法論が、18世紀初期に創出された方法からそれほど画期的な展開を見せて、近代に影響を与えたわけではないことが明らかになった。逆に言えば、役者の詳細な技芸、作品内容は、「見立て」などの遊びの中で鑑賞されていたことの証左とも言える。劇の批評に関する、近世と近代の本質的な違いとして、博士論文で言及する予定である。

〈近世浄瑠璃正本の調査〉
 近世浄瑠璃正本については、享保15(1730)年、大阪の竹本座で初演された『信州姨拾山』(しんしゅうおばすてやま)について調査を行った。
『信州姨拾山』は、初演されたものの、その後再演の記録がない。近世の戯曲研究では初演の状況への関心が高いが、このように近世に初演されて以降忘れ去れた作品が、どのように受容されたのかは、博士論文のテーマである「伝統」について考える時に重要である。特に、博士論文で扱う近松門左衛門の世話物なども、初演以降忘れ去られ近代に入って再発見された作品が多く、このような近松作品と、「信州姨拾山」との違いはどこにあるのかについて言及する必要があると考える。
 今回の調査の結果、興味深いのは、「信州姨拾山」は、「仮名手本忠臣蔵」のような人気作品に比べると明らかに再版が少なく、また、影響を受けた作品も少なく、近世人にも忘れ去られた作品と思われたが、天理図書館蔵本の蔵書印などから、貸本屋において書物として受容されていたことが明らかとなった。また、近代人にとっても、中之島図書館蔵本(B種)に饗庭篁村と朝日新聞創設者の村山龍平の蔵書印が確認されており、手にとっていることが明らかとなった。『信州姨拾山』は、明治33(1900)年に刊行された続帝国文庫『文耕堂浄瑠璃集』に所収されており、「信州姨拾山」の近世期の知名度に比べて唐突な印象を受けたが、続帝国文庫の校訂者が、水谷不倒であり、饗庭篁村と同じ研究仲間であったこともあわせて考えると、近世の作品の近代の再発見という点において、「信州姨拾山」は興味深いサンプルであることが明らかとなった。
 なお、本書の翻刻が、平成19年中に申請者の翻刻によって玉川大学出版部より義太夫節浄瑠璃未翻刻作品集成の一つとして刊行される予定である。

6.本事業について
   古典の諸本調査などの分野に関して、大学院生は自費で調査することが多い。稀に、科研費などの大きなプロジェクトの研究協力者として調査費を支給される場合もあるが、プロジェクトの目的達成のための調査であるために、個別の作品研究や研究テーマについて居住区から離れた一つの所蔵機関に長期にわたって調査を行うことは、経済的に困難を伴うことが多い。まして、資料の所在調査が十分になされていない分野などについては、このような補助がないと成果をあげることが不可能だ。
  長期間にわたって十分に資料を読み込むことによって、本来の調査目的以外の発見も少なからずある。居住区から離れた箇所の調査は、事前の所在調査によって特定の資料のみを閲覧することになり、先行研究の追認にとどまらざるを得ないことも少なからずある。しかし、このような派遣事業によって、先行研究にはない視点を得る機会が増える。
  今後も、資料の複写代のみならず、交通費、宿泊費も新しい研究の創出を推進するものとして、本事業が継続されることをお願いしたいと考える。

 
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