国内外フィールドワーク等派遣事業 研究成果レポート





七田麻美子(日本文学研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【c.国内フィールドワーク派遣事業】
  博士論文執筆のための資料収集
2.実施場所
  京都府総合資料館
3.実施期日
  平成18年6月18日(日) から 平成18年6月20日(火)
4.事業の概要
 

 京都府総合資料館には明治政府による京都府関連行政資料が保管されている。今回はその中から寺院資料の調査をおこなった。

 現在研究対象としている、平安後期の漢詩文の中で特に『本朝無題詩』はその後半約三分の一が山寺を舞台にした詩群で占められている。『本朝無題詩』はその特徴のひとつに即事的な性格を持つということが挙げられるが、この山寺詩群はその特徴を研究するに当たって格好の素材といえる。文人たちが、実際にその場に赴き、その場での感興を読み込む山寺詩は、即事性という意味で、それまでのいわゆる六朝的漢詩文の傾向が、ひとつの転換を呈してることの証左にもなる。そのため、文学史的にも意義の大きい存在である。ただしそこで取り上げられた寺院の多くが現在までに廃寺となっていると考えられ、即事性の検証のためには、実際の寺院の研究は避けられないが、それがかなわない状況であるということである。山寺詩のもつ即事性はここでは、環境の意味で捉えてよい。とすると、寺院自体はなくとも、その跡の調査にも意味はあると考えられる。そこで研究対象の時代より下って、中世、近世、近代へと寺院変遷の調査をすることから、有効な情報を読み取る必要が生じてくる。寺院が存在していたころの資料から、現在失われたその実際の姿を推測するという手段をとるということである。今回はいわゆる廃仏毀釈の運動があった直後の明治初頭の廃寺に関する行政資料の中から、現在失われた寺院の状況を調べるということが目的であった。

 閲覧した資料は明治七年の『廃寺跡御調書類』である。自らの研究分野との相違から、明治初頭の廃仏毀釈についての考察はできかねるが、一般に言われているように、このとき日本中の寺院の相当数が姿を消し、一説には半数近くに上るとさえ言われている。法隆寺の五重塔にまつわる話にも聞かれるように、仏教界にとってその打撃は計り知れないという印象の事件である。『廃寺跡御調書類』はこれが最も盛んに行われたとされる明治五年から六年の翌年、明治七年の資料である。京都府内で、おそらくこの直前に廃された寺院についての、主に土地の権利に関する行政文章で、その数は90件にのぼる。この中から、山寺詩に登場する寺院に相当するものを探しだすこと、また、それがかなわなくとも、多くの廃寺のその位置関係をさぐるのも、有益な情報となる。

 また、同じく明治期中盤には、京都府訓令という形で、現存寺社の調査が行われている。この資料の調査により、いわゆる近代において総括された寺社の縁起等を確認することにより、山寺の現在の位置を知ること目的とした。

5.本事業の実施によって得られた成果
   山寺詩における寺院の意味は、そこが仏の教えをうける場である、結縁の場であるということ以上に、そこが山であるということに比重がかかっていると考えられる。すなわち、山=隠遁の場であるということであり、これは前時代から見られる、白居易詩などの影響によるものと考えてよい。しかし、これを、次の時代への影響ということから捉えていくと、そこにはいわゆる隠者文学と呼ばれる、『方丈記』『徒然草』その他の中世文学に表れる、隠遁思想の表現の前段階ともいえるものを見ることができる。そうした隠遁文学の場である、草庵と呼ばれるもの、堂とよばれるもの、小さな寺院は、確かに現在まで姿を残すのは難しいだろう。それならば、その跡地だけでも確認しようというのが今回の調査への動機であった。

 そのための手がかりを求めてのこと故、明治初頭の廃仏毀釈関連史料から、それほど多くの山寺詩群の対象寺院に関する成果が得られるとまでは考えていなかった。実際に、その名前を完全に一致させられたものは数例に過ぎず、それでもその寺院の位置関係を知ることができたのは大きな収穫ではあるが、対象にする寺院は明治以前にすでに姿を消していたと考える方がよいということになる。しかし、今回この行政文書の調査から、ひとつ手がかりを得ることができたのは、『廃寺跡御調書類』に見られる、無くなった寺院の多くが非常に小さいものであるということで、それらはまさしく隠者の「草庵」に近いものであるということである。さらに、もう一点付け加えるなら、その寺院が存在する場に偏りがあるということもいえる。その村落にあったいわゆるお堂の類が、いったいどこまで遡れるものであったのかなどは、既に現在からは類推することも困難である。そのため、山寺詩との直接の関係をなどは考慮することもないだろう。しかし、そうした「隠者の場」にふさわしいロケーションの位置関係は知ることができる。失われた寺院が、その村落でどういう機能を果たしていたかなどは大きな問題ではあるが、専門外のことでもあり、考察することはできない。ただ、中世、近世にかけて脈々と続く隠者文学の系統に、そうした村落の寺院の存在は見ることができ、その源流である山寺詩に表れる寺院との関連というのは、一度考察に値すると思われた。少なくとも「隠者の場」が近代に至るまで存在し続けたことについては、考えていいだろう。今回の調査結果をもとに、地理的関係などをさらに整理して、文学における「山寺」の考察を深めることができると考える。

6.本事業について
   今回も大変勉強になりました。手書きの行政文章ゆえ、実際に行って時間をかけて見る以外に、その内容の端に触れることもできない資料で、それを閲覧することができ、今後の研究への手がかりを見つけることができたのは幸運でした。京都府総合資料館は、自分の専門とする平安時代の漢詩文関係の資料を多く集めるところではないので、研究の優先順位からいっても、やはり何かのついでにちょっと足を伸ばすぐらいのことかできない場所で、そこにあるであろうさまざまな史料のことを考えると、大変もどかしい思いをしていました。一日以上の時間をすべて費やして今回のような調査ができたのは、この事業による支援があったからであるというのは否定しようの無いことで、大変感謝いたします。今回扱った史料は、実際はまだまだ研究の余地があり、自らの研究分野に関しても有益な情報をもたらしそうだというのは分かったのですが、いかんせん実力が不足しているため、存分に読みこなし得ていない、使いこなせないということも痛感し、もっともっと勉強しないといけないなと思いました。本当はこれが最大の成果かもしれません。

 
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