国内外研究成果発表会等派遣事業 研究成果レポート





七田麻美子(日本文学研究専攻)
 
1.事業実施の目的 【e国際会議等研究成果発表派遣事業・.c.国内フィールドワーク派遣事業】
  中国東北部渤海国遺跡調査と、東北師範大学(長春)における国際シンポジウムおよび、北京大学における国際学術交流会への参加
2.実施場所
  中国、黒龍江省(旧渤海国遺跡)、東北師範大学(吉林省、長春)、北京大学
3.実施期日
  平成18年8月29日(火) から 平成18年9月5日(火)
4.事業の概要
 

 今回、派遣では、二つの事業区分にまたがって活動を行った。
日程の前半はフィールドワーク事業の区分活動として、渤海国遺跡の調査を行い、後半は国際会議等研究成果発表派遣事業の活動として、東北師範大学における国際シンポジウムと北京大学での学術交流会への参加をした。

以下にそれぞれの、概要を報告する。

 前半、渤海国調査は、もともと早稲田大学の研究プロジェクトの一つである渤海詩研究会の研究活動から始まった事業である。当該研究会は早稲田大学の古代文化研究所(旧)主催の研究会で、平安時代初期のいわゆる渤海使関連の詩文の研究を主眼としている。今回の調査は、渤海使の事跡において、その主要な舞台となる渤海国の遺跡を実地に調査することで、渤海詩研究に資することを目的として企画された。報告者はこの研究会に所属しおり、作品研究に携わっていることから参加を許可されたものである。
 渤海遺跡は現在の中国黒龍江省牡丹江市に位置する。寧安県渤海鎮という形で現在もその地域に地名を残しているが、唐代、東アジアで長安に次ぐ二番目の大都市であったというその痕跡はほとんど残されておらず、纔に旧都上京の内城の門(南門)の周辺の遺跡を残すのみである。但し発掘は進められており、その文物は吉林省の博物館をはじめとして、中国全土で保管されている。遺跡周辺においては小ながらも、上京龍泉府遺跡博物館が設けられており、一部の発掘品が展示されている。
 今回は、特に内城の調査を目的とし、南門を中心にその宮城跡を確認した。遺跡として形に残されているのは南門の土台以外はわずかな礎石のみであり、その他はすでに農地として利用されているが、発掘調査の報告などを元に、礎石をたどることで、往時の位置関係の復元想起することは可能であった。特に南門の土台石は修復が加えられているものの、当時の姿を保存してあるもので、その大きさ等から、渤海国の首都上京の繁栄の様子がしのばれた。渤海使との贈答詩は、残念ながら日本側のものしか残されておらず、渤海使との詩文のやりとりの実態は掴めていない。しかし今回の調査により、そこに描かれる渤海の様子との一致から、渤海国に関する表現は、渤海使の詩文を引く形のものである可能性が確認できた。それはさらに、仏教を信仰していた渤海国の中心的な寺院である興龍寺の調査でも明らかになったといえる。
残念ながら、二日目に予定していた六頂山古墳群の調査は現地のさまざまな都合により果たせなかった。六頂山古墳は、渤海国の王家の墓である。墳墓内部の調査は2000年までになされている。ただし今回は文学研究会主催の調査であるため、それは目的としておらず、敦化が渤海国発祥の地であるということから、その遺跡の確認を目的としていた。ただし、現在は古墳群としての保護が進んでおり、出発前に打ち合わせていたときより、管理についての細かな対応の変更があったようである。
 そのため、古墳群の周辺の地域と、敦化の旧都の碑を確認するだけに留まることになった。
この後、旅程の都合から、高句麗の遺跡も簡単にではあるが立ち寄るチャンスができ、見学できたのは僥倖であった。

 後半は長春の東北師範大学における国際シンポジウムへの参加をした。この学会は中国側、東北師範大学文学院と外国語学院、日本側早稲田大学日本古典籍研究所と日本宗教文化研究所の共催によるものである。発表人数は55名の大規模なもので、二日間で7つのセッションに分かれて発表が行われた。セッションの内容は以下のとおり。Ⅰ「文学理論と近代文学」Ⅱ「漢詩文と和歌」Ⅲ「物語・日記・説話の生成と受容」(以上一日目)、Ⅳ「日本近代文学の思想と特質」Ⅴ「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教①」Ⅵ「中国語と日本語の交流」Ⅶ「日本における漢籍受容と学問・思想・宗教②」(以上二日目)。
 一日目には日中両国の代表による基調講演が行われた。中国側の東北師範大学、孟慶枢教授による「文化的トポスにおける日本文学史の再構築」は、近代的学問方法の成立を文献学の発生に求め、そこから、明治の国学の復興の問題、「国語」教育などポリティカルな視点を踏まえつつ、明治の革新的な文学の発生を国木田独歩などを例として、近代における文学研究自体をいかに評価しなおしていくかに関する論を展開していくものであった。この講演に見られるように、中国東北部では近代日本に関する研究が盛んであるという印象を受けた。昨年参加した 北京師範大学では、古典文学の専門の発表が多かったのと比べると、この地の歴史的な背景からも、特色といってよいと思う。実際にセッションⅠ、Ⅳ、Ⅵは東北師範大学を始めとして吉林大学等中国側からの参加者が多く、今回のシンポジウムの一方の傾向を担っていた。
日本側の基調講演は早稲田大学の吉原浩人教授による「自賛の文学―大江匡房の自作四十九日願文を中心に―」であった。これは、平安時代の文人大江匡房を取り上げ、いわゆる和漢比較文学というジャンルが成り立つ所以である、日中の古典文学における共通言語としての「漢文」による作品の読解を披露し、今後の文学研究の課題を日中両国に示唆するものであった。
 日本人の参加者は、日本から渡中してきたグループの他に、中国で日本語教育に携わる若手の研究者も多く、古代の『万葉集』、中古の漢詩文、中世和歌、近世の物語研究、近代文学と多彩な文学研究と並んで、日本語教育についての発表が行われた。このため、シンポジウムで発表の機会を得なかった東北師範大学の学生等にとっても、刺激的且つ有益な情報に触れる機会を得られたようで、懇親会などにおいても、活発な質疑応答の場面が見られ、シンポジウム全体の盛り上がりへの一助となっていた。
 最終行程の北京大学における学術交流会においては、昨年北京師範大学で行われた国際シンポジウムにて得られた交流が基礎としてあったためか、学術交流を通じての一年ぶりの再会といった趣のものとなり、交流会以外でもそれぞれの研究の進展を報告しあう様子が多く見られた。去年より多い参加者がいたことから、新しい情報の摂取等、さらに広い分野での人的交流が行われ、年々に大きく広がっていく学術交流の現場を生で体験することになり、国際シンポジウム開催の意義を強く感じるものであった。

5.学会発表について
   今シンポジウムでは、大江匡房の「花樹契遐年」詩序についての発表を行った。
当該作品は、現在注釈等が未発表のもので、今回は私に注したものを元にし、文章の解析とその歴史背景の解明を試みたものである。

 この詩序は、文章中の詩宴主催者の記述から、匡房四十代の作品であることが分かる。昨今進展を見せる匡房研究においても、この時期の匡房についての言及は少ない。匡房は後三条天皇、白河天皇、鳥羽天皇という、いわゆる院政期初期の天皇に仕えたことから、院政期を支えるブレーンとして歴史上に位置する人物である。二十代から三十代にかけて、文人貴族としては異例の出世をとげたことから、天皇による抜擢という背景を以って語られる。そのため、その他の権力との関係について考察されることは少なかった。ところがこの詩序においては、摂関家との深いつながりを確認できる。匡房四十代の摂関家との関連のものというだけでも、平安時代後期の文学研究では画期といえる作品である。さらに、細かな分析を試みるに、匡房独特の文学スタイルと、そこから読み取れる匡房の人物像などもたち現れてくる。今回の発表では、こうした歴史的事実と、文章の詳解からわかった匡房の文学活動についての報告を行った。

 ここでは匡房の文学活動の特色について簡潔に説明する。
匡房は大儒とも呼ばれるように、その漢文学に対する知識は他を圧するものであった。また、累代の儒者の家に生まれたため、代々蔵されてきた書架についても恵まれた環境にあった。そのため、匡房の詩文には、新興の儒者には見られない、難解な表現が多く見られる。この場合の難解さは、文章中の語のレベルのものである。一般に四六駢儷文を基本とする六朝の詩文の影響を強く受けた平安時代の日本の漢詩文は、その語彙を先例によるのが普通である。ただし、文章が他人に向けて発表されるものである以上、その先例は享受の側との共通認識に基づくものでなくてはならない。しかし、匡房はそこにあえて、他人には分からないようなとっぴな語彙をふんだんに組み込むことがあるということが指摘されていた。
 また、匡房は作品ごとに、語の用例の元を偏らせる傾向も有る。これはたとえば「胡蝶」に関する詩文では老荘から、歴史に題材をとるものでは『史記』、『漢書』『後漢書』からといった用例のシリーズ分けをすることである。これらのテクニックはかなり高度であるためその他の儒者にはまず見られない。
 今回の作品では、それを白居易に求めている。白居易は平安時代最も愛された作家であり、その作品は多くの人に膾炙されている。そのため当時において、一見この作品は簡易なものであったと思われる。しかし、そこには大きな仕掛けが施されており、実はその語彙のほとんどが、曽祖父の大江匡衡の作品によるものだということが分かった。さらにいうならば、そのほとんどが、匡衡と時の権力者藤原道長との関係を元にする作品だということも分かった。
これにより、匡房は大江家と藤原摂関家の密接なつながりを、あるいは暗に読み込む作品を作ったことが証明される。語彙の選択に関して二重に仕掛けをすることで、分かりやすく美しい文章という一般的な要求に対する対応を見せつつ、強いメッセージ性を持つ構造の文章をつくったことになる。これは匡房にしかできない技術によるものではあるが、技術の披露をしただけというにはあまりに特異な人物像も想起させるものである。

以上が、本発表の簡潔な内容である。
 これに対して、論については特に大きな意見はなかったが、注釈に関しては、考察の余地を指摘された。実際には全文の注釈を初発表したことから、その場では検討が難しいということもあり、専門家の先生方からは、後日機会を設けてこの検討をすることを約束された次第である。

6.本事業の実施によって得られた成果
   まず、渤海調査については、今まで漠としてイメージとしても捉えられなかった渤海国の跡地に直接行くことで、詩文に描かれた世界を直接見ることになったことが何よりもの収穫である。
実はこの点には大きなねじれが隠されている。渤海詩は贈答詩であるが、日本側のものしか残されていない。日本からの送渤海使の存在などもあるように、日本から渤海に行った人物の作も残されてはいるが、そのほとんどは渤海に行ったことのない人々がイメージの渤海を元に作った詩文である。つまり渤海詩に現れる「渤海国」は作家たちにとって見たこともない世界なのである。これは渤海使との直接の交流からくる情報を基にしている面にも負うところはあるだろうが、おそらく今は伝えられていない渤海使の詩文の文言に影響を受けているということも考えられる。贈答詩の形式から考えてもその点は無視できない。つまり、語の用例における先例を受けた詩文の制作という形式が基礎にあり、その展開が日本の渤海詩には見られるということである。

 日本文学にはこのような見たことのない世界を叙景するという伝統がある。たとえば歌枕などがそれである。こうした傾向を踏まえて、改めて渤海の地に行くと、そのイメージの正確さについて確認ができた。「見たことのないものの叙景」という作業が、「架空の世界の叙景」ではありえないところには、文学が政治と密着していた時代の意味を感じ取ることができる。こうしたことが確認できたことに深い意義を感じる。今後はさらに渤海詩の詳解と分析を重ねて、今回得た資料と対照しつつ、渤海詩という公宴詩の研究を続けていくこととする。また、これらの成果は日本で行われている渤海詩研究会での活動に生かしていく予定である。

 学会発表については、まずこの発表をしたことにより雑誌投稿の足がかりを得たこと、さらに注釈についての意見を得られたことにより、論の補強ができたことなど、発表自体が最大の成果である。また、昨年より知己を得た中国における日本古典文学研究者との交流を今年も行えたことにより、研究者としての人的交流という財産を強化できたことはいうまでもない。
中国において漢詩文の研究発表を行うことには、日本で行うこととまた異なる視点での指摘が得られることから意義は大きい。近年和漢比較文学の分野では台湾・中国・韓国等東アジア文化圏でのシンポジウムの開催など学術交流が盛んであり、その研究動向は共有されてきている。その中に確かに痕跡を残せたことにも小さいながらも自負を感じているところである。


7.本事業について
   このたびは、海外フィールドワーク派遣事業および国際会議等研究成果発表派遣事業に参加させていただき誠にありがとうございました。
 国際シンポジウムへの参加は二度目ということで、今回は前回よりも落ち着いて学会に参加させていただくことができました。発表に関する部分もさることながら、今回本事業のおかげで、早々に参加を申し込めたことから、シンポジウムの日本側での準備に関して、少々ではありますがお手伝いさせていただく機会がありました。
そのため、遠くはなれたところで国際会議を準備していくことの難しさを痛感したのともに、その基本的なルールなども知ることができました。

 実は、この経験は今すでに生かせております。私はSIPにも参加させていただいております。その一環として、規模は相当小さいものではありますが、中国側と共同研究会を開催することになり、自身もその連絡等準備にかかわっています。この準備もかなり困難なものを伴っておりますが、本当に今回の国際会議での経験が役に立っています。もし、この経験がなかったら、下手したら頓挫もあったのではなかったかと思うほど、メールだけでやり取りすることは難しいものだと痛感しながら、何とか実現に向けて準備を進めております。
 こうしたことは、この事業がなかったらまず経験できるものではないのは当然です。そしてこの経験自体が相当に貴重なものであるということもつくづくと感じました。経験をすぐにフィードバックできる環境にあることも、自身にとって大きな意味を持っています。自分には分を過ぎたこととは思いながら、やはりこうした経験を存分に生かして研究生活に臨んで生きたいと思います。

 
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