ポスター発表

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「女形」と「男旦」――新派と文明戯を中心に

発表者所属名
国際日本研究専攻  国際日本文化研究センター
発表者氏名
陳 凌虹

 新派劇は旧派の歌舞伎に対する呼称であり、角藤定憲の壮士芝居(1888年、大阪新町座)、川上音二郎の書生芝居(1891年、大阪卯の日座)がその始まりとし、後に日清戦争劇、家庭劇によって本郷座の興隆期を迎え、現在なお劇団新派によって受け継がれている。中国の文明戯は19世紀末から芽生え、中国の古典演劇を継承しながら、もう一方で近代劇の影響を受けて、両者の交錯作用によって作り出された演劇様式で、中国の現代演劇の誕生を促した演劇様式でもある。新派も文明戯も西洋のリアリズム演劇を取り入れて新しい演劇を創造するのを目標としながら、在来の伝統劇の芸に依存しないと出発できない矛盾を最初から抱えていたので、その芸は伝統と近代の折衷に立地し多様な表現をもっている。それに文明戯の発祥と発展の歴史を遡れば、日本との深いつながりが目立っている。中国最初の文明戯劇団――1906年に東京で創立された春柳社は、日本演劇界の養分を吸収したため、同時代の他の演劇団体に比して演出形態、舞台美術などの面においてより近代的な演劇理念を見せていた点で高い評価を得ている。春柳社に限らず、19世紀末から中国現代演劇(話劇)成立(1924年)までのおよそ20余年間で日中間の演劇交流も活況を呈していた。本研究はこのような近代日中演劇界の緊密な連携関係とりわけ中国の近代演劇の成立に果たした日本の役割について、文明戯と新派を中心に検討する。その一例として「女形」演技の異同を考察する。
 そもそも男性が女性の役を演じたり、女性が男性の役に扮したりすることは芸人の選択自由であったが、後に風紀を乱すことを理由に政府によって女役者の活動が禁止され、初めてプロの「女形」が生まれたわけである。(女優禁止令、江戸幕府―1629年、中国清王朝―1671年)

 1、「演技的に歌舞伎の直系」といってよい新派の女形

喜多村緑郎(1871-1961)河合武雄(1877-1942)花柳章太郎(1894-1965)

 2、新派に私淑する文明戯の女形芸

李叔同(1880-1942)、欧陽予倩(1889―1962)、馬絳士(?-?)


(河合武雄の椿姫) (李叔同の椿姫)

 3、女優問題と女形の運命

 1891年真砂座の男女合同演劇で女優が始めて登場したが、世論が厳しいため、女形が明治末まではずっと主流であった。大正以降、女優(水谷八重子)の活躍に伴い、女形が減ってきたが、新派の人気を成すものはむしろ女形の方にあると言われる。それに対し、中国における最初の女優登場は1923年上海戯劇協社の公演で、それ以来、文明戯の女形が劇壇からすばやく姿を消していった。原因はいくつか挙げられる。第一、本郷座時代の新派にはすでに完成された芸の世界が築かれていた。第二、新派の古典物は不動な位置を保ち、ヒロインの多くは明治、大正、昭和時代の日本女性である。着物の世界の継続は女形芸の伝承を保証した。第三、新派女形俳優のために脚本を提供する作家がいた。