ポスター発表

ポスター発表

絵画と伝承に見る疫病神の姿

発表者所属名
日本歴史専攻
発表者氏名
荻野 夏木

 【麻疹絵について】

 幕末期には、コレラなどの疫病の流行が何度か起こった。そのうち、全国で麻疹が大流行した文久2年(1862)には、その際に麻疹の流行を報道する大量の錦絵(=麻疹絵)が発行され、それらは現在も残っている。
 こうした麻疹絵は、主として当時の麻疹の治療方法やまじないについて伝えているが、同時に、麻疹という病気をつかさどる疫病神を可視化して描いたものが多く見られる。それらの図像から、近代以前に人々がどのように病気の原因を思い描いていたか、病気とどのように向き合っていたかを探れるのではないかと考え、上記の麻疹絵をはじめとしてできるだけ多くの図像および近世の書物から疫病神に関わる伝承を参照してみた。すると、麻疹の疫病神=麻疹神の描かれ方には、以下のような特徴があることがわかった。
 麻疹神が具象化される場合、まず老人か老婆の姿で表されていることが多い。ぼろぼろの着物をまとった人物というイメージは、麻疹に限らず疫病神全体に共通しているが、麻疹神の場合は「おそろしげなる婆」「何国の者とも見知れぬ婆々年の頃四五十位」が病人やその家族の枕元に来たという話が当時の生々しい体験談としても残されており(小杉元蔵『見聞集』)、老婆の姿というイメージがとくに強かったのではないかと思われる。これについては、当時の麻疹絵の中に、麻疹神として中国に伝わる麻娘々という仙人を紹介するもの(よし幾「はしかよけ」 文久2年4月)が見られ、こうした伝承も関係していたかとも思われる。また、酒呑童子に麻疹をなぞらえたものも見られる(芳藤「はしか童子退治図」文久2年7月など)。またそうした麻疹神は、体中に発疹ができているなど自らも麻疹に罹患したような姿、麻疹の病状をそのまま象徴する姿で描かれ、これを英雄や擬人化された「治療薬」たちが追い払っているという構図が麻疹絵では一般的である。

 【疱瘡との違い】

 一方、麻疹と症状が似通っており、当時は「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」として麻疹と対のように扱われていた疱瘡と比べてみた際、そこには共通性と違いがそれぞれある。
 当時の疱瘡は一般には子どもが幼い頃に罹る病気だったが、麻疹ほどではないが流行することもあり、その疫病神=疱瘡神が描かれている錦絵も存在する。その描かれ方は、御師、子ども、若い女性などとイメージは一見ばらばらだが、ほとんどの場合、疱瘡見舞いの定番だった達磨、木兎の張り子、玩具など柄が描かれた赤い着物をまとい、そして赤い幣束を帯びている。こうした品、および赤色には疱瘡が軽く済むようにというまじないの意味があり、それらを身に付けた疱瘡神は単なる悪神ではなく、むしろ守護の力をも託されていたのではないかと考えられる。民間伝承の中には、疱瘡除けのまじないをもたらしてくれるような疱瘡神も描かれており(各地に残る“疱瘡神の証文”、東随舎『古今雑談思出草紙』など)、またそうした疱瘡神の一部は、かつては自分も人間であり、疱瘡によって死んだのちに神に転じたと称することすらあった。
 麻疹と疱瘡は発疹が出るなどの症状が似通っているせいか、麻疹絵にも赤い幣束を持った疫病神の姿がたまに見られる。また民俗事例としての麻疹送りと疱瘡送りは、どちらもサンダワラの上に赤飯を置いて辻に置いてくるというほぼ同じ方法で行われ、ときに混同されているように見受けられる。しかし、疱瘡神が帯びる守護神的な側面は、麻疹神の場合には見られないものであり、子どもの通過儀礼として受け止められる疱瘡よりも、老若男女問わず罹患する麻疹のほうが、より災害のような忌避すべきイメージを帯びていたことがうかがえる。
 なお、文中に挙げた錦絵類は、ポスターで実際の画像を紹介しているので参照されたい。