
橘曙覧・たちばなのあけみ(以下は曙覧とする)は、江戸時代後末期の歌人、国学者である。越前国福井(福井県)の人であり、名は尚事、四十三歳の時曙覧と改名した。号は霊隠・花奴などがある。文化九年(1812)生まれ、慶応四年(1868)没、五十七歳だった。田中大秀に国学を学び、率直清新な歌風を持ち、幕末の個性的な地方歌人の代表の一人とされる。
「独楽吟」(どくらくぎん)は、曙覧の家集『志濃夫廼舎歌集』に収める五十二首の連作歌であり、各首歌の首句を「楽しみは」と歌い出し,末句を「時(とき)」で結ぶという独特な表現形式を持つ、いわば「楽しみ」の歌である。当時の福井藩主松平春嶽をはじめ、正岡子規などによって倣って詠じられ、多くの歌人に影響を与えたという。
「楽しみは‥‥時(とき)」という独特の形式について、先行研究では、「くつかむり」の方式などが作者の発想と構成を促した、あるいは俳諧歌や狂歌から影響を受けているなどのような指摘が存在するが、納得のいく具体的な説明はいまだ提出されていない。
水島直文『橘曙覧作「日本建国之吟」考』に、橋川時雄博士の示教によれば、「独楽吟」は、宋の邵雍の詩集『撃壤集』中の「独楽吟」を典拠としているとのことであるというようにある。しかし、邵雍(1011-1077、北宋時代の儒学者)の詩集『伊川撃壤集』には、「独楽吟」という作品が存在せず、その一方、「首尾吟」という一群の連作詩がある。
この「首尾吟」は、一百三十五の連作であり、各首詩の初句と末句は「堯夫非是愛吟詩」(堯夫はこれ詩を吟ずるを愛するにあらず)という同じ句で統一されている。このような形式は『撃壤集』に初見され、「首尾吟」体と呼ばれて漢詩の体裁の一つになっている。そして、それは「独楽吟」の形式と非常に相似している。そこに、「独楽吟」の表現形式の形成においては、この「首尾吟」体という体裁からの影響を看過すべきではないと考える。
また、表現内容においても、学問の楽、日常生活の楽、自然の楽、家庭・田園の楽など人生の楽しみを詠み上げる、または静思・瞑想の境に入ったことや困苦の境に陥ったことを詠むなど、「首尾吟」から発想や趣向などをとりなしたとみられる例が「独楽吟」に散見される。たとえば学問の楽しみを詠み上げた例をあげてみると、以下のようにある。
【独楽吟】
一、たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたる時
二、たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
三、たのしみは百日ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出できぬる時
四、たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時
五、たのしみは好き筆をえて先水にひたしねぶりて試るとき
【首尾吟】
一、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫試硯時
玉未琢前猶索辯、金軽煅後更何疑
当時掉臂人皆笑、今日揺頭誰不知
天下鳳凰飛処別、堯夫非是愛吟詩
二、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫擲筆時(紙幅の都合により、以下各首は首句と次句のみを掲る)
三、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫掩巻時
四、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫試筆時
五、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫筆逸時
六、堯夫非是愛吟詩、詩是堯夫試墨時